火渡館

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火渡館
岩手県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 火渡氏(附馬牛氏)
築城年 不明
主な城主 火渡中務・火渡広家[1]
廃城年 不明
遺構 曲輪、石垣、掘、石碑[1]
指定文化財 史跡等未指定[2]
位置 北緯39度24分22.7秒 東経141度32分17.3秒 / 北緯39.406306度 東経141.538139度 / 39.406306; 141.538139座標: 北緯39度24分22.7秒 東経141度32分17.3秒 / 北緯39.406306度 東経141.538139度 / 39.406306; 141.538139
地図
火渡館の位置(岩手県内)
火渡館
火渡館
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火渡館(ひわたりだて)は、岩手県遠野市附馬牛町(つきもうしちょう)上附馬牛火渡にあった戦国時代日本の城

概要[編集]

築城時期は不明。旧陸奥国閉伊郡上附馬牛村に所在した。城跡猿ヶ石川と荒川の合流点より北東500メートルの丘陵上にある。東西方向に伸びる頂上稜線の平坦面は東西300メートル・南北100メートルで、数段の曲輪に別れ、東側の稜線基部は3本の空堀で画されている。北側・西側・南側の斜面地にも数段の帯曲輪が残っている[1]

戦国時代には阿曽沼氏の一族・阿曽沼中務のとき当地を得て、火渡館に居住、附馬牛氏とも火渡氏とも称した。

火渡中務の子・火渡広家は、のちに玄浄と称したが、慶長5年(1600年阿曽沼一族内訌に与しなかったため、鱒沢氏らに攻められ、火渡館での攻防戦で討死した[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 岩手県教育委員会 1986 p.240
  2. ^ 「文化財の保護」遠野市公式HP

参考資料[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-040-01030-2 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 岩手県教育委員会『岩手県中世城館跡分布調査報告書』 82巻、1986年3月30日、240頁https://sitereports.nabunken.go.jp/63039 

関連項目[編集]