満福寺 (仙台市)

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満福寺まんぷくじ
所在地 宮城県仙台市若林区荒町206番地
位置 北緯38度14分59.6秒 東経140度53分12.6秒 / 北緯38.249889度 東経140.886833度 / 38.249889; 140.886833
山号 金光山
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗智山派
創建年 1643年寛永20年)頃
開基 寛快
別称 毘沙門堂
札所等 奥州仙臺七福神
文化財 毘沙門堂唐門(仙台市指定有形文化財)
法人番号 4370005000723 ウィキデータを編集
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満福寺(まんぷくじ)は、宮城県仙台市若林区荒町にある真言宗智山派仏教寺院である。荒町商店街の東部に所在する。江戸時代初期における仙台城城下町若林城の城下町との境界に建つ。

境内の毘沙門天奥州仙臺七福神の一)が仙台市民によく知られており、一般に満福寺も含めて「毘沙門堂」と通称されている。また、親しみを込めて「荒町の毘沙門さん」とも呼ばれる。

概要[編集]

満福寺は、毘沙門天の別当寺として1643年寛永20年)頃に創建された。毘沙門天像は像高3m程で、伝説によれば安元元年(1175年/1176年)に奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡運慶に彫らせ、戦国時代には粟野大膳が所有し、その後は伊達政宗の所有となって現在地に安置された[1]。福徳と子育ての神として信仰を集め、寅年の大祭の日に開帳される。

江戸時代には仙台藩内に相撲興行場が5か所指定されたが、毘沙門堂はそのうちの1つであった。藩内で最も多くの相撲興行が行われた当堂は、仙台相撲興行の中心地となった。その関係もあって、大相撲第9代横綱である秀ノ山雷五郎の供養碑や、立行司の六代目式守伊之助(二代式守鬼一郎)の墓もある。

年中行事では、初詣、どんと祭、節分のほか、毎月の初トラ縁日に人が多く集まるが、8月初旬の大祭、および、「夜空のオーケストラ in 荒町」の際には境内に人が溢れる。

歴史[編集]

仙台藩祖伊達政宗による仙台城と城下町の建設(1601年1月12日慶長5年12月24日) - 元和年間)の後、仙台城の城下町の南東に接して広瀬川沿いに1627年寛永4年)から政宗の隠居所となる若林城およびその城下町[2] の建設が始められた。仙台城の城下町は南東下がりの長町 - 利府線断層[3] が形成した断層崖の西側の河岸段丘上に造られたが、若林城の城下町は仙台城の城下町と連続して同断層崖から同断層東側の沖積平野にかけて造られた。また、奥州街道が若林城下町を通るよう付け替えが行われた。1636年(寛永13年)に政宗が死去すると、若林城は廃城となって若林城の城下町は仙台城の城下町と統合された。

現在の満福寺の毘沙門堂にある毘沙門天造は、若林城およびその城下町が建設開始された1627年(寛永4年)に、若林城下町北西角[4]、すなわち両城下町の境界の断層崖上の当地に、広瀬川を挟んで対岸の北目城[5] 付近から政宗が移転させた[6]1643年寛永20年)に仙台藩第二代藩主伊達忠宗が毘沙門天に鞘堂を造り、同時期に別当寺として満福寺が寛快により創建された。

毘沙門堂への参道は南北に通じ、北端に毘沙門堂、南端に鳥居が建つ。鳥居のさらに南方は石垣町が南北に続いている。石垣町は、途中から仙台開府時の奥州街道となり、広瀬川に至る形になっている。1695年元禄8年)頃に、鳥居前を東西に通る新たな奥州街道部分の沿道に御譜代町荒町(現在の荒町商店街)が移転してきた[7]

1887年明治20年)に開通した日本鉄道本線(現東日本旅客鉄道 (JR)東北本線)の建設の際に、仙台停車場(現JR仙台駅)構内になってしまうことになった東六番丁所在の高福院が当寺に合併され廃寺となった。

1904年(明治37年)の火災で毘沙門天像の表面が焼けた。

1944年昭和19年)、毘沙門堂の横にあった鐘楼の鐘が、第二次世界大戦における金属供出により失われた。ところがこの鐘は、結局潰されずに横須賀に放置され、後にアメリカ合衆国ボストン美術館の庭園に野ざらしで展示されていたことが判明した。美術館は日本から贈られたものだと主張して返却せず、そのままとなっている[8]

1983年(昭和58年)に奥州仙臺七福神が設定され、毘沙門天がその1つとなった。

1987年(昭和62年)より、『星空コンサート』を仙台七夕前の8月3日に開催。出演は宮城フィルハーモニー管弦楽団(1989年仙台フィルハーモニー管弦楽団に改称)。

1996年平成8年)1月30日、毘沙門堂唐門が仙台市指定有形文化財となった。

2007年(平成19年)より、「星空コンサート」が「夜空のオーケストラ in 荒町」に改称され、宮城教育大学管弦楽団が仙台フィルに替わって出演。

アクセス[編集]

実際には坂がない五橋駅からの方が愛宕橋駅より近い。バスの始発は交通局大学病院前で、定禅寺通市役所前も通過する。毘沙門堂鳥居前の荒町商店街は、宮城県道235号荒井荒町線に当たる。

脚注[編集]

  1. ^ 鈴木省三『仙台風俗志(全)』(歴史図書社、1977年、原著1937年)97頁。
  2. ^ 若林城とは「○若林城下」(仙台市)… 若林城下町の範囲が図示されている。
  3. ^ 図1-4-1-1H10 宮城県:長町-利府線断層帯(稠密浅層ボーリング調査・地層抜き取り調査)2 既往調査成果の概要」)
  4. ^ 仙台鹿の子
  5. ^ 政宗が仙台城に移る直前の居城。長町の東の郡山地区にあった。
  6. ^ 「せんだいむかしばなし」(企画:仙台市、出版:宝文堂)に記載された異説は以下のようになっている。
    粟野大膳がその勢力下の郡山(仙台市太白区)に毘沙門天を祀って伊達政宗の攻略に耐えていたため、政宗もその毘沙門天に願掛けをしたところ、大膳の城を落城させることが出来た。すると政宗はその毘沙門天に感謝してお堂を建てるつもりで担いで帰城の途についたが、その毘沙門天に別の武将が願掛けをすれば自らも攻略されかねないと考え直して清水小路荒町の辺りの溝に投げ捨てた。その後、荒町の子供たちがその毘沙門天を溝から見つけ出し、荒町の人たちの手でお堂が建てられ、今の毘沙門堂になった。」
  7. ^ 若林区地名考1「荒町」(仙台市中央市民センター)… 仙台城下町の南町の西側に並走してある元々の荒町の町域は、移転後に本荒町と改称された。
  8. ^ 『あらうんどあらまち荒町界隈物語』11頁。

参考文献[編集]

  • 鈴木省三著、青木大輔・中山栄子・編『仙台風俗志(全)』、歴史図書社、1977年。原著は『仙台風俗志』として1937年刊。
  • 仙台市史編さん委員会・編『仙台市史』(通史編3、近世1)、仙台市、2001年。
  • 「若林区ウオッチング」スタッフ・編『荒町界隈物語 あらうんど・あらまち』、若林区役所瀬組んだ医師荒町市民センター、2000年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]