湊谷弘

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獲得メダル
日本の旗 日本
男子 柔道
世界選手権
1967 ソルトレークシティー 軽中量級
1969 メキシコシティー 軽中量級
1965 リオデジャネイロ 軽量級
1971 ルドウィグスハーウェン 軽中量級

湊谷 弘(みなとや ひろし、1943年10月17日 - )は日本柔道家(8段)。富山県出身。 196769年に開催された世界選手権の軽中量級覇者である。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

富山県福野町(現・南砺市)で接骨院を営む家に、7人兄妹の末っ子として生まれる[1]。父が道場を経営していた関係で5際頃から柔道を始め、当時は、幼心にもインターハイ国体への出場を目標に、稽古に励んだ。なお、兄妹はいずれもスポーツマン・スポーツウーマンで、後に卓球(ダブルス)で日本一になった者もいる[1]

中学校を卒業すると、進学校であり、柔道でも小杉高校らと共に当時富山県内の4強に数えられた福野高校(現・南砺福野高校)へ進学。当時は武道=体重無差別の時代であり、現在なら軽量級に区分される当時体重60kgの湊谷は、常に自分より大きい相手と戦う事が当たり前だった。高校3年次のインターハイ県予選では準決勝まで進むも、体重90kgの相手と延長の末に引き分け、あみだくじで決勝進出を逃している[1]。また国体予選では5人の出場枠に対しベスト8止まりで、代表の座は射止められなかった。結論を言えば、高校時代の湊谷は全国大会には一度も出場していない事になる。

全国大会出場が叶えられず「もっと強くなりたい」という願望が一層大きくなった湊谷の思いとは裏腹に、高校時代に結果を残していない湊谷に対して大学柔道部からの勧誘は皆無だった。それに加え、家庭の経済的な事情も考慮し、湊谷は富山県警を受験してこれに合格する。しかし、近所に住む武専出身の酒井吉男(富山県柔道連盟副会長)が、同じく武専出身で、当時の大学柔道界で最強を誇った天理大学の指導員を務める松本安市吉松義彦橋元親らに推薦してくれたため同大学を受験、倍率5倍以上であったが合格者25人のうちの23番目の成績で合格した(柔道の審査では1勝2敗3分けと散々たるものだったが、800m走が断トツの1位だった事による合格だったそうである)[1]

飛躍の天理大学時代[編集]

1962年の4月に天理大学柔道部に入部するも、実力の劣る湊谷は、実力ごとにAからDまでクラス分けされた中の最低ランクDに分類され、監督・コーチ陣からは名前すら覚えて貰えなかった。また長身細身の体格から「ホネ」と揶揄され、先輩からは柔道部特有の"かわいがり"(いわゆるシゴキ)を受けた。一日に3-4回(最高で11回)は絞め落とされたそうである[1]。 この頃の事を湊谷は、「何度も退部を考えた事はあったが、生活費を工面してくれる兄や貧しいながらも学費を捻出してくれた父の事が頭をよぎり、負け犬となって富山に帰るわけにはいかなかった」と述懐している[1]

体格で劣る湊谷は従来の練習に加え、筋力トレーニングや走り込み、1人打ち込みなど自主トレーニングを遮二無二こなし、2年生の夏になるとブルース・リーのように細いながらも筋肉質の体を手に入れた。この頃には背筋力も200kgを越え、3年生の先輩の半分は相手にすらならないほど強くなり、秋には柔道部内のクラスもAに昇格していた[1]。3年次にはその卓越した実力を証明するかのように全日本学生体重別選手権(軽量級)で3位入賞を果たし、体重無差別の学生団体戦のレギュラーに軽量級ながらも抜擢され、また出場するだけでも名誉とされた東西対抗大会で優秀選手賞を受賞するなどして、1964年東京五輪の強化選手に選ばれた。大学4年次の1965年には、リオデジャネイロで開催される世界選手権の代表選考会で東京五輪覇者の中谷雄英明治大学)を破り、見事代表に選ばれた。世界選手権では、決勝戦で同じ日本代表の松田博文関西大学)に敗れるも銀メダルを獲得し、一躍その名を広めた。

世界選手権とオリンピック[編集]

1966年に大学を卒業すると、東京五輪無差別級の金メダリストであり天理大学で修行した事もあるオランダアントン・ヘーシンクから誘いを受け渡欧。ユトレヒトにあるヘーシンク道場やオランダ体育大学で指導員を務める傍ら、一方で自身の稽古も行い、特に寝業を徹底的に鍛え上げた。「水も食べ物も合わないし言葉もわからなかったが、柔道は共通だから困る事はなかった。」と湊谷。欧州各国にも出稽古し、5人掛け・7人掛け等をこなしたという[1]

1967年5月に帰国すると、同年の世界選手権(ソルトレイクシティ)代表選考会では、試合前に松本安市監督から代表選出の条件として課された全試合一本勝ちを見事に成し遂げ、日本代表に選ばれた[1]。 8月の世界選手権では決勝で韓国朴吉淳大外刈で敗り、世界チャンピオンに。なおこの大会では7試合を戦い、合計10分もかからないほどの圧倒的強さであった。

オリンピックイヤーの1968年は、湊谷自身も後に「出れば100%金メダルの自信があった」と語る通り、五輪に向け周囲の期待も高まるが、開催国に種目決定権があった当時のメキシコは柔道競技を採用しなかった。 翌1969年には、千載一隅の機会を逃した鬱憤を晴らすかのように全日本選抜体重別選手権で優勝し、世界選手権で2連覇を達成したほか、軽中量級の体格ながら、体重無差別で行われる全日本選手権でブロック予選を勝ち抜き本選出場を果たした事も見逃せない。

「オリンピックの金メダルは欲しかった」と語る通り、1972年ミュンヘン五輪を目標に自身を奮い立たせるものの、年齢的な体力の衰えは隠せなかった。1971年7月の体重別選手権で3位に終わり、9月の世界選手権でも決勝で若手の津沢寿志(正気塾)に敗れた。 翌1972年の体重別選手権でも野村豊和に敗れ準優勝であった。これを最後に同階級の第一線からは退いたが、以降もサンボの大会で優勝したり、1975年の全日本選手権に出場し選手宣誓を務めるなどした[1]。なお、柔道を始めた頃に目標としていた国体への出場は、実に14回を数えた。

指導者として[編集]

オランダからの帰国後、選手と並行して金沢工業大学の助手・柔道部監督を勤めていた湊谷は、指導者としても秀でた能力を発揮し、同大柔道部を13年連続で北信越ブロック優勝に導いた。1974年に助教授、1991年に教授となり、この間にテレビ金沢のキャスターも経験。1994年にはかつての師・アントン・ヘーシンクを石川に招き、大学柔道場で技を掛け合うなどした[2]1996年、教え子の1人が正力杯学生体重別選手権で3位入賞。これは、練習時間の制限というハンディを背負った工業大学の学生である事を考慮すれば、特筆すべきであろう。

湊谷は全柔連評議員や全日本学生柔道連盟理事などを務める傍ら、北信越学生柔道連盟の会長に就任し、北信越地域における柔道の発展に尽力した。2004年からは、自身の名を冠した「湊谷杯全国学生柔道体重別選手権」も主催。

2009年3月、東海大学出身で全日本ジュニアの優勝経験もある鈴木貴士に監督を譲り、大学を退任。客員名誉教授となった現在は[3]、金沢市郊外で妻と悠々自適の生活を送る[1]。齢65を越えた今も日々の鍛錬は欠かさず、ベンチプレスは130kgを指す。時折、金沢工業大学にある柔道場(湊谷の功績を記念して「湊谷道場」と呼ばれる)で学生と共に汗を流している。

主な戦績[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k “転機-あの試合、あの言葉 第61回-湊谷弘-”. 近代柔道(2010年4月号) (ベースボール・マガジン社). (2010年4月20日) 
  2. ^ “金沢の湊谷さん、「恩師」悼む 柔道ヘーシンク氏死去に”. 北國新聞 -地域スポーツ- (北國新聞社). (2010年8月29日). http://www.hokkoku.co.jp/subpage/LS20100829601.htm 
  3. ^ “教員プロフィール -湊谷 弘-”. 学校法人金沢工業大学. (2011年4月20日). http://www.kanazawa-it.ac.jp/kyouinroku/a/k0020EX.html 

外部リンク[編集]