山城新伍

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やましろ しんご[1]
山城 新伍[1]
山城 新伍[1]
近代映画社『近代映画』第16巻第9号(1960)
本名 渡辺 安治(わたなべ やすじ)[1]
生年月日 (1938-11-10) 1938年11月10日
没年月日 (2009-08-12) 2009年8月12日(70歳没)
出生地 日本の旗 京都府京都市上京区
死没地 日本の旗 東京都町田市
身長 174 cm
血液型 O型
職業 俳優司会者タレント映画評論家映画監督
ジャンル テレビドラマ映画バラエティ番組映画評論CM
活動期間 1957年 - 2008年[1]
配偶者 花園ひろみ
1966年 - 1985年
1991年 - 1999年
著名な家族 南夕花
(娘、2000年に分籍
事務所 オフィス・タッチ
公式サイト 山城新伍プロフィール
主な作品
テレビドラマ
白馬童子
桃太郎侍』<高橋版>
映画
白馬童子 南蛮寺の決斗
喜劇 特出しヒモ天国
ミスターどん兵衛』(初監督)
女猫
 
受賞
日本映画批評家大賞
特別賞
2003年カポネ 六本木錬金の帝王
1993年:第4回日本ジュエリーベストドレッサー賞男性部門
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山城 新伍(やましろ しんご、1938年昭和13年)11月10日 - 2009年平成21年)8月12日)は、日本俳優声優司会者タレント身長174cm映画評論家映画監督としても活動した。本名:渡辺 安治(わたなべ やすじ)。

元妻は花園ひろみ、娘は南夕花京都市生まれ[1]

所属事務所歴[編集]

東映→沢井プロダクション→サイプロダクション→プロダクションノータイトル→オフィス・タッチ

来歴[編集]

京都府京都市開業医の子として生まれる。京都府立山城高等学校卒業。高校ではラグビー部に入っていた。両親と同じ道に進もうと医大への進学を考えて大阪医科大学関西医科大学を受験したが、いずれも不合格だった。

医師の道を諦め、時代劇スターに憧れ、エキストラをやった後、東映ニューフェイス第4期に応募して、1957年東映へ入社。同期に佐久間良子水木襄室田日出男曽根晴美・花園ひろみ・山口洋子がいる。1958年映画『台風』でデビューし、翌年にはテレビ時代劇『風小僧』で初主役となり、更には1960年にテレビ時代劇『白馬童子』で主演を務め、子供達の人気者となる。子供向けの時代劇だったものの、都会派で端整な顔立ちのスマートな青年が、忍者の様な見映えする白装束で白馬に跨る姿は、立ち回りの切れの良さもあって、大人からも人気を博した。

芸名は、一説では山城は出身高校の山城高等学校からで「いかにも京都出身らしい響き」ということで、新伍は当時大川橋蔵主演で人気があった映画シリーズ『新吾十番勝負』から採り、字画が良かったので吾を伍にした、という由来がある[4]

当時は映画の全盛期でテレビは黎明期であったので、映画会社はテレビを軽視し、ドラマには無名の俳優ばかりが出演していた。しかし、東映の俳優による公開野球大会が行われた時、無名若手俳優の山城が登場すると、並居る大スター以上の拍手が客席から沸き起こった。また、当時映画監督や俳優にはテレビの仕事をする監督や役者は二流だという認識があった為、嫉妬から謂れのないいじめを数知れず受けており、長年俳優として辛酸を舐める事となり映画では脇役が多かった。

1960年代に入ると黒澤明勝新太郎座頭市等の影のあるリアルな時代劇に人気が集まり、勧善懲悪を主軸に置いた白塗りの正義の味方が登場する東映時代劇の人気は衰退。1963年を境に東映は時代劇から現代劇へと重点を置き始めると、数多くの任侠映画やギャング映画等に出演する事となる。1968年より始まった不良番長シリーズでは軟派な役柄を演じると共に、東映ポルノにも精力的に顔を出し続け、そんな頃、監督の深作欣二と交友を深め、二枚目からアクが強い個性派のイメージチェンジへ変えて、1973年仁義なき戦いを始めとした東映実録路線で再び頭角を現す様になった。そのジャンルを選ばぬ姿勢を評して「ミスター・プログラムピクチャー」と呼ばれた。

その後、1970年代から活躍の舞台をテレビに移し、2時間ドラマでは主演作を多く持つ傍ら、バラエティ番組でも個性を発揮し、司会やパネリストとして活躍。作家の小林信彦から、その司会ぶりを「日本人離れした話術」と賞賛された[5]

バラエティ進出のキッカケとなったのは、まだ二枚目スターのイメージが強かった70年代前半に、毎日放送制作のバラエティ番組『スター漫才選手権』にゲスト出演した事が挙げられる。スターとお笑い芸人が漫才を披露するという内容で、山城はかつて同じ東映時代劇で悪役を演じていたチャンバラトリオ南方英二と組んで下ネタのギャグを飛ばす等イメージとかけ離れた話芸で多くのファンをびっくりさせた。元祖ちょいわるおやじと言うべき、二枚目だが口の上手いエッチなおじさんと言うキャラクターはこの時始まったのである。

1970年代初期、3年ほど干されていた時期がある。吉田豪によるインタビューによると「海外で銃を買って帰った為」だという。

東映では若山富三郎に気に入られ、その影響を受けて、俳優仲間、特に映画『仁義なき戦い』での共演者を中心に面倒見のいい所があり、仲間達のバラエティ進出をフォローしていた。若山については、その役者馬鹿ぶりを『おこりんぼさびしんぼ』という著書にまとめて一部で評判を呼んだ[6]

1976年4月公開の『テキヤの石松』出演後、長年在籍した東映を退社、フリー[2]。山城は「東映には愛着はありますが、ボクを受け入れてくれる要素が少なくなってきた。思い切ってフリーになって、新規巻返したい」などと話した[2]

映画への想いが熱く、映画評論、映画監督もこなしている。監督としては、1980年ミスターどん兵衛』を皮切りに、日活ロマンポルノのヒット作『女猫』(めねこ)、『双子座の女』の他、『やくざ道入門』、『本日またまた休診なり』、『梁山泊 ファミリー』といった作品を手掛けた。自身がファンだった清純派女優・早乙女愛を口説き落として自らが監督を務める『女猫』に出演させ、同作品は日活ロマンポルノの歴代売上第3位になるというヒットを記録した。

1989年には千葉真一松方弘樹北大路欣也、梅宮辰夫、渡瀬恒彦と"トムソーヤ企画"を立ち上げ、第一回製作作品で『せんせい』を発表するが、興行的に失敗となり、その損失を埋めるべく渡瀬以外のメンバー5人で出演したのが、「バブルスター」のCMであった。[7]

映画評論では、1979年10月から2002年3月までサンテレビで放送された『火曜洋画劇場』で司会を務め、歯に衣着せぬ映画愛にあふれる言葉で映画の批評を行なっていた。東京12チャンネルの『木曜洋画劇場』でも映画解説者を務めたが、1977年の『独占!男の時間』最終回で東京12チャンネル批判をした事が災いし、早期で降板となった。また当時東京に進出したばかりの笑福亭鶴瓶が番組ディレクターの傲慢な態度に立腹し、同局の社長であった中川順が飼っていた錦鯉を踏み殺すという暴挙に出て、同局を出入り禁止になった彼を庇った事も一因といわれる。

1990年代まではテレビ番組の司会やクイズ番組パネラーとして活躍し、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』で共演した逸見政孝とは、同じ関西出身である事や番組出演がきっかけで親友となり、彼の葬儀では「春になったら一緒に憎まれ口を叩きながら(『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番での)司会をやりたかったのに、残念だ」、「惜しい男を亡くしたものだ」と弔辞を読み涙した。また、日曜19時枠で『クイズ・マネーイズマネー』の司会を務め、同番組が終了して、しばらく経った後、当時裏番組だった『クイズ!!ひらめきパスワード』で2代目司会者を務めた。『クイズ!!ひらめきパスワード』は、高校の後輩でもある当時MBSアナウンサーだった野村啓司から引き継いでいる。

演じる役の幅は、『不良番長』シリーズ等での超C調なキャラクターから『仁義なき戦い』の粗暴なヤクザ、『付き馬屋おえん』等での無口で職人肌の男までと幅広く、悪役・市民・刑事・看守・どの役でも圧倒的な存在感を見せていた。

司会を務めた『独占!男の時間』で、当時東京12チャンネルアナウンサーの小倉智昭を起用した。その後小倉は上層部と衝突しフリーアナウンサーへ転向するが、「山城さんとの出会いがなければ、今日ここに座っている事もなかった」と述懐している[8]

島田紳助とは同郷でもあり、かつて『新伍&紳助のあぶない話』で5年半共に司会を務め、バラエティ番組で共演するほど仲が良かったが、一時期関係が悪化した事があった。その後は2002年10月の『開運!なんでも鑑定団』で共演、関係は修復されていった。紳助は山城の訃報に接し「大先輩なのに、いつも『紳助ちゃん』と呼んでいただき、優しくしてもらいました」と惜しんでいる。『新伍&紳助のあぶない話』で岡江久美子がゲスト出演した際、『クイズ!!ひらめきパスワード』の事をネタにした事がある。

1992年1月暴力団の組長の娘の結婚式で仲人を務めて、問題だとして集まった芸能レポーターに「父親がヤクザの娘は幸せになってはいけないのか?」と反論した[9][10][11]

2005年12月25日、『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ系)に出演[12]糖尿病を患っていた事を告白。また、鶴田浩二高倉健若山富三郎里見浩太朗逸見政孝とのエピソードについて語った。糖尿病を患ってからは痩せ、テレビ番組の露出を控えていた。

2007年5月6日朝日新聞日曜版で写真入りで近況が伝えられる。糖尿病はコントロールできているとの事で、容色もふっくらとし、現場復帰への意欲を述べていた。医師をしていた父も重度の糖尿病で亡くなったとの事で、糖尿病は「遺伝」だとコメントしていた。

2008年8月28日発売の『週刊文春』9月4日号で『「このまま消えてしまいたい」山城新伍直撃「老人ホーム」最後の日々を語る」』と題された記事において、同年6月に老人ホームに入居し老後を送っていると報じられた。そこでは 「芸能界に戻る気はない」、「引退した者やから何もしなくていい。このままひっそりとしたい」、「みんな自分の事を忘れている」、「娘には会いたい」と話し、糖尿病の悪化により車椅子での生活を余儀なくされ、老人性鬱病、認知症なども患っており、復帰は困難という状況だった[13]。妻子に捨てられ(後述)老いと病気で衰えた姿を見られたくないと旧友の梅宮辰夫松方弘樹らの見舞いの訪問を頑なに拒んだ。

2009年8月12日午後3時16分、東京都町田市の特別養護老人ホームで嚥下障害による肺炎で逝去[14]享年70。戒名は「白慧院彰芸日安居士(びゃくえいんしょうげいにちあんこじ)」。白は代表作の「白馬童子」から取ったという。遺骨は京都市の金閣寺と妙満寺(顕本法華宗)に分骨して納骨される事となった[15][16]。喪主は山城の代わりに医師になった実弟が務めた。

同年10月9日、梅宮辰夫、松方弘樹らが発起人となった「お別れの会」が都内のホテルで催され、長門裕之菅原文太中村玉緒地井武男和田アキ子、渡瀬恒彦、小林稔侍赤木春恵山本陽子五月みどりら136人[17] が出席し、故人を偲んだ[18]

人物[編集]

家族[編集]

父は開業医で、母は看護師2000年に監督した映画『本日またまた休診なり』は山城が高校生の時に亡くなった父へ捧げた作品。弟も医師で、山城が老人ホームに入所してからは何回か見舞いに訪れ、山城の臨終を看取った。

元女優の花園ひろみは元夫人で、元女優の南夕花は長女。花園には車に同乗させて湖に突っ込み「結婚してくれないとこのまま死ぬ!」と結婚を迫ったほど深く愛し[19]、それに自信を持っていた。花園とは結婚と離婚を2回ずつしており、2度目の離婚後もバラエティ番組で『再婚の可能性は?』と聞かれ「50%だね」と冗談めかして答えたことがある。また、南を溺愛し、自らの司会する『新伍のワガママ大百科』に起用したり舞台で共演し「俺の家族は山城教だ!」と語るなど家族の結束に強い自信を持っていたが、南は2度目の離婚後の2000年『婦人公論』2000年6月号のインタビューで山城に「あの人を父と呼びたくない、自分勝手で無神経なので」と宣言し[19]分籍した。

上記の経緯から『週刊文春』に老人ホーム入居の記事が掲載されて以降も訪問は無く、ホームに入居の際、町田市役所から花園と南に連絡したが「一切関わりたくない」と一蹴されたと報道されている[19]。その話を聞いた山城は自身の葬儀に二人を呼ばないように要求したという。しかし一方で、生前週刊誌の取材で「娘には会いたいなぁ…」と話すなど[19]、愛憎相半ばする想いを抱き続けていた。没後、山城の実弟や東映の同期俳優の曽根晴美らが葬儀・告別式への参列を呼びかけたが、これを拒絶。法要をはじめ、山城側の関係者との関りを一切絶っている[20]

ファッション[編集]

バラエティ番組に出演する時の衣装は、1980年代はノーネクタイのシャツ、ジーンズブルゾン1980年代後半からは、黒のタートル又はカットソー、黒のパンツダブルのジャケットを羽織って袖を捲るのが定番となっていた。

柳沢慎吾上島竜兵がよくバラエティ番組で山城の物真似をしており、時折、衣装のポイントを語っていた。テレビ朝日深夜番組ナイナイナ」では「ファッション山城」として山城の服飾センスを検証する企画も放映された。また、1970年代後半から眼鏡やハーフトーンのサングラスを掛けるようになり、フレームは黒い細身のツーブリッジのティアドロップ型を好んで掛けていた。

エピソード[編集]

学生時代、モテる男子を装うために女子トイレに忍び込み「渡辺君(山城新伍の本名)、かっこいい、好き」とトイレ個室の壁に書き込んだという。

東映に入ったばかりの頃、先輩俳優から「乗馬を覚えておけ。馬に乗れるようになれば、ウチ(東映京都)は時代劇(の映画)が多いから、どこかで使ってもらえるよ」と云われた。山城はその先輩のアドバイス通り乗馬を覚えたら、テレビドラマ『白馬童子』の主演話が舞い込んできたことを語っている[21]

芸能の歴史と部落差別問題について詳しく、著作もある。差別問題に詳しいのは、父親の医院が被差別部落や在日韓国・朝鮮人部落の中心にあったからという[22]

関西弁で物事をはっきりとテレビでも言う性格で知られているため、敵対する者も多く、以前『新伍のわがまま大好き』などでも共演していたやしきたかじんは「山城は嫌いや」と言って憚らなかった。山城はたかじんを評価しており、『たかじんnoばぁ〜』の出演を熱望したが、しばらく断られていた。後に共演するが、その後も「俺は好きになれん」と言われていた[23]。また、『新五捕物帳』では初期のレギュラー出演者だったが、主演の杉良太郎を批判して自ら降板している。

東映の後輩で「どん兵衛」のCMで共演した川谷拓三は、山城と一時親交を深めていたが、その後は川谷から関係を絶ち、疎遠になった。山城の人物像については「自分勝手で、弱い人間の気持などわからない。二度と仕事をしたくない」とマスコミに明かしている[24]

ジャイアント馬場とは盟友であり、プライベートでも親交が深かった。

梅宮辰夫は映画『不良番長』シリーズで共演して以来の盟友であり、プライベートでも親交が深かった[25]松方弘樹とも仲が良い。

早乙女愛は山城の愛人の一人だと噂され、その他にも山口美江から「山城に強要された[注 1]」と語られた。また、娘の南の親友を愛人にしていたことが暴露されるなど、プレイボーイぶりや女癖の悪さが仇となり妻・花園ひろみとの離婚再婚・再離婚へと繋がっている。

阪神タイガースファンであり、サンテレビのプロ野球中継サンテレビボックス席』にゲストとして呼ばれた事もある。

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

Vシネマ[編集]

テレビアニメ[編集]

劇場アニメ[編集]

吹き替え[編集]

ラジオ[編集]

出演番組[編集]

司会[編集]

レギュラー[編集]

CM[編集]

演出[編集]

映画[編集]

  • ミスターどん兵衛(1980年、東映)
  • 女猫(1983年、にっかつ)
  • 双子座の女(1984年、にっかつ)
  • せんせい(1989年、松竹)
  • やくざ道入門(1994年、松竹)
  • 本日またまた休診なり(2000年、松竹)
  • 週刊バビロン(2000年、東映)

ドラマ[編集]

  • 新大江戸捜査網 (1984年、TX系、第14話「浮草慕情おんな節」)
  • 土曜ワイド劇場ANB
    • 若き未亡人の推理旅行 若狭路レイプ殺人の謎!好奇心があばいた不倫妻の濡れたアリバイ(1989年)
    • 銀座クラブママ殺人事件(1991年)
    • 熱海芸者連続殺人事件!未亡人探偵(1992)
  • 大江戸捜査網 (1990年、TX系、平成第1シリーズ第18話「吉原恋模様 居残り新十郎」)
  • 火曜ミステリー劇場 切り裂かれた花嫁衣裳!隅田川に追いつめられた父娘!!留守番電話に殺人予告が?(1991年、ANB)
  • 付き馬屋おえん事件帳 (1995年、TX系、第3シリーズ第6話「忘八地獄」)※脚本も担当。

Vシネマ[編集]

ディスコグラフィ[編集]

シングル
タイトル
B/W・C/W
作詞 作曲 編曲 その他 発売年 レーベル 備考
山城新伍の あ〜ボチャンとね!! 河村シゲル 市川昭介 小杉仁三 ユニオンレコード 「独占!男の時間」挿入歌
ほろほろ鳥 阿久悠 井上忠夫 小谷充 ユニオンレコード
キャンパスチョメ、チョメ たかみさなえ たかみさなえ 伊豆一彦 withメルヘン・ギャルズ ラジオシティレコード

著作[編集]

  • 『白馬童子よ何処へ行く 独占男の時間』(八曜社、1976年)
  • 『映画通のタネ本』(青春出版社プレイブックス、1979年10月)
  • 『軟派の硬意地 ― 芸能界、裁くのは俺だ 裁かれるのも俺だ』(実業之日本社、1983年11月)
  • 『山城新伍の「知りすぎてしまった男」』(はまの出版、1986年10月)
  • 『新伍のぶっつけ本番』(ふたば書房、1988年6月)
  • 『新伍のハーフタイム』(ビクター音楽産業・ビクターブックス、1989年)
  • 『一言いうたろか ― 新伍の日本映画大改造』(廣済堂出版、1993年10月)
  • 『かなり好きです ― 珍ヒューマニズム宣言』(青春出版社 青春ブックス、1994年5月)新書判
  • 『現代・河原乞食考 ― 役者の世界って何やねん?』(解放出版社、1997年8月)
  • 『おこりんぼ さびしんぼ ― 若山富三郎・勝新太郎 無頼控』(幻冬舎、1998年6月/廣済堂文庫、2008年9月、吉田豪解説)
  • 『わがまま筆まかせ』(中央公論新社、1999年8月)

受賞歴[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 週刊ポスト」で「私を襲った最低な男」のインタビューにて山口は「白馬童子」を演じた俳優Aが嫌いである事を語っている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i コトバンク - 山城新伍”. 2018年11月20日閲覧。
  2. ^ a b c d 河原一邦「邦画マンスリー」『ロードショー』1976年10月号、集英社、175頁。 
  3. ^ “山城新伍さんが嚥下障害による肺炎のため死去”. ORICON STYLE. (2009年8月14日). オリジナルの2014年5月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140530032039/http://www.oricon.co.jp/news/68418/full/ 2014年5月30日閲覧。 
  4. ^ 週刊テレビ番組(東京ポスト)1982年7月30日号 p.55「芸名由来記」
  5. ^ 小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫、1982年、pp.306-307。
  6. ^ “ナゼ許された? 山城新伍さんを見舞ったアノ女優 ライター・吉田豪氏が語る”. ZAKZAK. (2009年8月24日). オリジナルの2009年8月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090827125226/http://www.zakzak.co.jp/gei/200908/g2009082428_all.html 2014年5月30日閲覧。 
  7. ^ “素っ裸にタオル一枚のいい男たち!伝説的CMが生まれた意外な理由とは”. crea. https://crea.bunshun.jp/articles/-/11267?page=3 2021年8月24日閲覧。 
  8. ^ “「死去」山城新伍との出会い 「小倉智昭の人生」変えた理由”. J=CAST テレビウォッチ. (2009年8月14日). オリジナルの2014年2月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140222133904/http://www.j-cast.com/tv/2009/08/14047436.html 2014年5月30日閲覧。 
  9. ^ 「芸能界スキャンダル!!汚染 山城新伍マル暴仲人「妻も賛成した!オレは間違っていない!」」『週刊女性』1992年2月4日号。
  10. ^ 「うわさの真相 山城新伍結婚式仲人事件 正論と名演技で堂々の反論 しかし疑問の残る部分も!」『噂の眞相』1992年3月
  11. ^ 宮崎学、日名子暁「アウトロー対談 芸能人という突破者」『別冊宝島396 芸能人という生き方 波瀾万丈!懐かしのスターたちが見た「天国と地獄」』宝島社、1998年、p.248.
  12. ^ 山城新伍 - オリコンTV出演情報
  13. ^ “山城新伍の「今」にみる 有名人の「フェードアウト」”. J-CAST テレビウォッチ. (2008年8月28日). オリジナルの2008年8月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080828180204/http://www.j-cast.com/tv/2008/08/28025850.html 2014年5月30日閲覧。 
  14. ^ 山城新伍さん老人ホームで死去”. 日刊スポーツ (2009年8月14日). 2020年11月7日閲覧。
  15. ^ “葬儀に娘参列せず…山城新伍さん親族“恨み節””. Sponichi Annex. (2009年8月19日). オリジナルの2014年5月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140531043456/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/08/19/kiji/K20090819Z00001640.html 2014年5月31日閲覧。 
  16. ^ “山城新伍さん荼毘に付され遺骨は金閣寺へ”. asahi.com. (2009年8月15日). オリジナルの2009年8月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090818214708/http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200908150016.html 2014年5月30日閲覧。 
  17. ^ 山城新伍さん しのぶ会に136人 梅宮辰夫「笑って送ろう」”. 日テレNEWS24. (2009年10月9日). オリジナルの2009年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091024033447/http://www.news24.jp/entertainment/news/168376.html 2014年5月30日閲覧。 
  18. ^ “【悼 Memory】山城新伍を偲ぶ食事会と飲み会”. zakzak. (2009年10月30日). オリジナルの2009年12月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20091204015856/http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20091030/enn0910301641020-n2.htm 2014年5月30日閲覧。 
  19. ^ a b c d 山田裕子 (2009年8月19日). “山城新伍さん亡き後、連絡すら取れない"女優"の妻と娘。遺産も放棄するの?”. サイゾー. 2015年10月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月9日閲覧。
  20. ^ 【魚拓】山城新伍「孤独の老人ホーム死」でも絶縁・無視を貫いた元妻と娘の「恨み骨髄」/壮絶「芸能スキャンダル会見」秘史 | アサ芸プラス
  21. ^ 1998年頃の東京スポーツ紙上に山城自身が連載した手記より
  22. ^ TOKYO人権 第12号(平成13年11月16日発行)特集1 人間は生まれながらにして人間である 〜映画「本日またまた休診なり」で感じてほしいこと〜 -山城新伍さん-
  23. ^ 週刊読売 1998年11月22日号内の記事
  24. ^ “肥留間正明の芸能斜め斬り 故山城新伍さんのカネと女と孤独な晩年(リアルライブ)”. livedoor NEWS. (2009年10月17日). オリジナルの2013年6月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130614082851/http://news.livedoor.com/article/detail/4401165 2014年5月30日閲覧。 
  25. ^ https://www.oricon.co.jp/news/68544/full/
  26. ^ 浮浪雲”. マッドハウス. 2016年5月20日閲覧。
  27. ^ 『総合食品』第15巻第8号、総合食品研究所、1992年1月1日、59頁、NDLJP:3326400/33 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]