渡辺勘兵衛 (石田家臣)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渡辺 勘兵衛(わたなべ かんべえ、生年不詳 - 慶長5年(1600年))は、安土桃山時代の武将。石田氏の家臣。『佐和山落城記』[1]に、石田三成に付き従った家臣の一人としてその名が見られる。別名で新之丞(しんのじょう)とも書かれ、こちらの表記で書かれることが多い。同じく渡辺勘兵衛と名乗った渡辺了とは別人。
[編集] 生涯
羽柴秀吉から2万石での誘いを受けたとされる豪傑で、他の大名にも評価が高い人物であったとされる。その後、秀吉の家臣である石田三成に仕えた。当時、三成は禄高500石の小姓であったので、不思議に思った秀吉が訊ねると、三成は「自分の500石の知行全てを与えた。勘兵衛に自分が100万石取りになった際に10万石を与える約束をして雇った」と話した。三成の大志に感嘆した秀吉が三成自身はどうするのかと問うと、「勘兵衛の家に居候になります」と聞いて大笑したとの話が伝わる。後に、三成が佐和山城主となると、勘兵衛の知行を加増しようとしたが、勘兵衛は「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞し、500石のままで居続けたという。[2]
関ヶ原の戦いでは、主君の三成に従い西軍に属する。黒田氏の家臣で勇猛で知られた後藤基次と一騎打ちをする[3]など活躍するが、西軍の敗走に伴い重傷を負い、自害したとされる。自害の際、今生の名残にと三成に会いに行き、勘兵衛の手を取って「そなたの10万石も、夢となってしまった」と嘆く三成に、これまでの恩義に対する感謝を捧げたという。