清水誠 (実業家)

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1874年の天体観測隊。清水は真ん中にいる。

清水 誠(しみず まこと、弘化2年12月25日1846年1月22日) - 明治32年(1899年2月8日)は、明治時代実業家マッチの製造で知られる。

人物[編集]

加賀藩士の子。1870年フランスの理工系学校の名門エコール・サントラル・パリに留学。このときに学んだ知識がマッチ開発の際に役立ったと言われている。フランス留学中の1874年に、フランス外遊でパリを訪れていた当時の宮内次官吉井友実からマッチ製造の研究を勧められる。翌年、東京でマッチ工場を操業。さらに翌年新燧社(しんすいしゃ)を創立する。広く他社にも製法の指導を行った結果、マッチは日本の主力輸出産業となったが、同時に多くの粗悪品も輸出され日本製マッチへの信用を失い、そのあおりで1888年に新燧社は倒産した。

主にマッチの製造で知られる清水であるが、金星の太陽面通過を日本人として初めて写真撮影に成功した人としても知られている。フランス天体観測隊に同行し、1874年12月9日の太陽面通過を神戸市にて撮影した。

神戸市の諏訪山金星台には「金星過日測検之處」と円筒形の御影石に刻んだ記念碑が建てられている[1]

1899年、肺炎のため死去[2]

新燧社の所在地は後年、清水誠顕彰会によって突き止められ、その跡地にできた東京都立両国高等学校の敷地内に、1986年に「国産マッチ発祥の地」の記念碑が建立された[3]

脚注[編集]

  1. ^ 石川化学教育研究会編『科学風土記』裳華房、1997年。ISBN 978-4-7853-8669-6 
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁
  3. ^ マッチ業界の多角化 - マッチの世界(日本燐寸工業会)

参考文献[編集]

関連項目[編集]