浮島の森
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浮島の森(うきしまのもり、うきじまのもり)とは、新宮藺沢浮島植物群落(しんぐういのさわうきしましょくぶつぐんらく)として1927年(昭和2年)に国の天然記念物に指定された植物群落。植物群落の全体が、沼池に浮かぶ泥炭でできた島(東西85m、南北60m、面積4961m²)の上にあることから、こう呼ばれる。
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[編集] 概要
[編集] 浮島の形成
和歌山県新宮市にある日本最大の浮島である。島全体と島が浮かぶ沼池の底が植物遺体に由来する泥炭で出来ており、島状の部分では30~60cm、沼底部では少なくとも300cmの厚みがあることが確認されている[1]。
浮島を形成する泥炭は沼沢地で形成されたものである。縄文時代前期の海進期には、海岸線が現在の新宮市街に大きく侵入しており、現在の新宮市中心市街の全体が入江状の湾(内湾)になっていた。浮島周辺の地層は、新宮市域の地質の基盤となる熊野層群および熊野酸性火成岩類の上に成立した沖積低地である[2]。この沖積低地の地質的構成は、礫・砂・シルトからなる下層部の上に海成シルト質粘土層が積み重なり、そのさらに上層が泥炭層となっている[2]。この海成シルト質粘土層は有機物に富み、潮間帯に生息する巻貝や内湾底に生息する二枚貝などの化石が多く産するほか、下層部との間に、およそ6300年前のものと推定されるアカホヤ火山灰層がある[1][2]。これらのことから、「「浮島」は、内湾から沼沢へという変遷を経て、沼沢の中で成立したものであるといえ」[2]、熊野川のはたらきによる形成を示す証拠はみられない[3][4]。
縄文時代の中期から終わりにかけて、海岸線が後退をはじめるとともに、池沼や潟湖からなる湿地帯が広がる様になった。この湿地帯は熊野川沿いの自然堤防や大浜沿いの浜堤あるいは段丘などによって囲まれていたためにながく残り、近世初頭まではかなりの広さがあったと伝えられている[1]。加えて、豊富な地下水の供給に恵まれたことで、沼池で枯死した植物の遺体が腐敗することなく泥炭状に変化したことが泥炭層の形成に効果的に作用したと見られる[5]。
[編集] 泥炭層の組成
泥炭層は島状の上位泥炭層(層厚30~60cm)と沼底の下位泥炭層(層厚300cm)からなり、両層の間には水層(層厚5~30cm)または水分に富む層が存在する[1]。「すなわち、上位泥炭層は、浮遊状態を維持している「泥炭浮遊体」である」[6]。浮島は泥炭、すなわち植物遺体の分解物および分解中間生成物からなる[6]。そうした材質のために、浮島はその名の通りに水に浮かび、1945年(昭和20年)頃までは、台風や荒天などで大風が吹いたり、島の地表で強く足踏みするなどすると、島全体が揺れ動いたという。
いくつかの年代測定の結果から推定されるところによれば、水層の直上の泥炭層が堆積したのは1710年の前後40年程の期間と見られ、歴史的には宝永年間(1704年~1710年)前後の江戸時代初期と重なる。これらから求められる泥炭の堆積速度は1.9~2.3mm/年となり、一般的な堆積速度(0.6~1.0mm/年)からするとかなり大きい[7]。
[編集] 泥炭浮遊体の成立
浮遊する浮島の成立の要因として、指摘されるのは、浮遊体を形成する泥炭層の存在、および泥炭層を浮遊させる水位の上昇の2点である[8]。
上位泥炭層は、水平方向に伸びた太い植物根や倒木が骨組みとなって植物根や植物繊維を捕捉する構造となっているために浮遊状態を維持するのに適している。また、上位層と下位層では含有する植物遺体やその分解程度などの特性に相異が見られるため、両層は癒合しにくくなっている[8]。
また、浮島周辺の沼沢地も、周囲の開発が進んで規模が狭められたことで水位の上昇がおこった可能性がある[8]。『紀伊続風土記』には、樹木の生えた浮島があり、その上で飛び跳ねると音を立てて動いた旨の記述が見られることから、上記の成立年代の推定が傍証される[8]。
[編集] 浮島の植物群落
この浮島で注目すべきは、島の植物群落である。島内には、130種もの植物が存在し、樹木の種類こそ当地の平均的なものと変わらないものの、本来はより寒冷な土地にしか生育しないヤマドリゼンマイやミズゴケと、暖地の植物であるテツホシダが同時に見られるなど、寒地暖地両方の植物が混在するだけでなく、温暖な南国のそれも都市の真っ只中にある低湿地に高原性の植物まで見られるという、植物学的に極めて珍しい混成群落をなしているばかりか、島の上に天然スギを優占種とする森林が構成されている。こうした特徴[8][9]のために、天然記念物に指定された。
こうした貴重な自然をもつ浮島だが、戦後の都市化に伴う乾燥と地下水位の低下、汚水の流入による水質悪化、泥炭層の肥厚により、大きな影響を受けている。島は南・北・東で沼池の底に座礁してしまい、島全体が動く様子は確認できなくなってしまった。また、寒地・高原性の植物の減少、新芽の発芽の困難など、悪影響が著しい[10]。そのため、熊野川からの導水による水質の改善(1991年~)、沼池の浚渫(1993年~1994年)、東側の岸辺を掘り下げて沼池を拡張する(2006年~2007年)などの対策をとり、環境の復元を図る事業を市と和歌山県が共同ですすめている[11]。
[編集] 人文地誌
[編集] 修験道
また、近世以前には神倉神社を拠点とする神倉聖(熊野速玉大社など新宮一帯の社寺の運営にあたった修験者集団)の聖地・行場と見られていた(『紀伊続風土記』)[12]。
[編集] 伝説・文学
島には「おいの伝説」と呼ばれる伝説がのこされており、俗謡にうたわれている。概要を記すと以下のようになる[13]。
この島の付近に、おいのという娘が住んでいた。ある日、おいのは、父親とともに薪採りに島に渡った。昼飯時に弁当を開いた父娘だったが、箸を忘れてきたことに気がついた。おいのは、アカメガシワの枝を折りとって箸の代わりにしようと、森の奥深くに入っていったが、なかなかもどってこない。怪しんだ父親が探しに行くと、まさに娘が大蛇に飲み込まれようとしているところであった、驚いた父親が助けようとしたが、娘は蛇の棲む底なしの井戸についに引き込まれてしまった。
浮島内には「蛇の穴」と呼ばれる沼があり、伝説の井戸であると言われている。上田秋成はこの伝説に題材をとり、『雨月物語』の一編「蛇性の婬」を著したといわれる。のちにこの作品は、谷崎潤一郎によって戯曲化された。
[編集] 所在地・交通機関
〒647-0014 和歌山県新宮市浮島
[編集] 周辺情報
[編集] 脚注
- ^ a b c d 後・山崎[2006:84]
- ^ a b c d 後[1987:110]
- ^ 後[1987]
- ^ さらに、後によれば浮島周辺の地名である藺沢とはイグサ科の植物の繁茂する沼沢地を示す語であり、浮島の形成史の傍証となるという[後 1987:113]。なお、浮島の形成に関する研究史の概観は後[1987:109-110]を参照。
- ^ 後・山崎[2006:84-85]
- ^ a b 後[2006:85]
- ^ 後[2006:86-87]
- ^ a b c d e 後・山崎[2006:87]
- ^ 新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会[1990:19]
- ^ 以下、新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会[1990:19]、後・山崎[2006:86-88]
- ^ 以上の保存施策について、和歌山県環境衛生センター[2001]、後・山崎[2006:88]、AGARA(紀伊民報インターネット版)「浮島の森 水域拡張工事が完了」(2007/3/29)
- ^ 後・山崎[2006:88]
- ^ 後・山崎[2006:88-89]
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会、1990、『新宮市の文化財』、新宮市教育委員会
- 後 誠介、1987、「「浮島」の成因と「藺沢」の地名について」、『熊野誌』33号、熊野地方史研究会・新宮市立図書館 pp.109-114
- 後 誠介・山崎 泰、2006、「森を形成した泥炭浮遊体 -浮島の森-」、『熊野誌』52号、熊野地方史研究会・新宮市立図書館 pp.83-91
- 和歌山県環境衛生研究センター (2001). "天然記念物「浮島の森」についてPDF". 環衛研だより. 2009-05-06 閲覧。
[編集] 外部リンク
- 浮島の森 - 新宮市公式サイトの観光情報
- 天然記念物「浮島の森」について - 和歌山県環境衛生研究センター内。浮島の森の概観と2000年までの保存対策について記述。
- 浮島の森 水域拡張工事が完了 - AGARA(紀伊民報インターネット版)記事(2007/3/29)。

