浅野目義英
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あさのめ よしひで
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| 生年月日 | 1958年5月27日(53歳) |
| 出生地 | 東京都 |
| 出身校 | 法政大学 |
| 所属政党 | (新自由クラブ→) (自由民主党→) (無所属→) 民主党 |
| 公式サイト | あさのめホームページ |
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| 選挙区 | 南第9区(さいたま市浦和区) |
| 当選回数 | 2回 |
| 任期 | 2007年4月30日 - 現職 |
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| 当選回数 | 4回 |
| 任期 | 1983年12月 - 1999年12月 |
浅野目 義英(あさのめ よしひで、1958年5月27日 - )は、日本の政治家。上尾市議会議長などを務めた後、埼玉県議会議員。
目次 |
人物
東京都で生まれた直後に米沢市で育つ。その後4歳の時に埼玉県に移り住み戸田市、蕨市などを転居し、7歳からは上尾市に移り、埼玉県立上尾高等学校時代以降は原市団地で一人暮らしをした。読書好きで高校時代に乱読生活を送った。特に哲学者三木清の著作を耽読。戦前戦中、三木を唯一教授として迎え入れていた法政大学の社会学部応用経済学科(現:社会政策科学科)に進学した。弁論部に所属し在学中に全関東学生雄弁連盟機関紙局長も務めた[要出典]。徹底した二党存立論者であり[要出典]、青年時代は自民党に代わる勢力形成に努力を傾注し[要出典]、新党運動(新自由クラブ)に没頭した。滋賀県甲賀郡土山町議会選挙(馬場康次)を皮切りとして、参議院議員埼玉地方区選挙(森田重郎)などで選挙ボランティアとして活動した。20歳の時に10歳年上の弁論部OBである新自由クラブ政策委員・上田清司(現埼玉県知事)に出会い上田の提案もあり、新自由クラブに入党。同全国連合・青年協議会副代表。大学卒業後、桶川市立桶川北小学校の教師に着任した。
1983年12月、25歳で上尾市議会選挙に新自由クラブ推薦で立候補、初当選を果たした。1987年日本経済新聞・元旦特別号に掲載された「突っ走る新人類4人」に、バイオリニスト・千住真理子、劇作家・鴻上尚史等と共に新時代を予感させる若者の一人として登場した[1]。その後4期連続当選して総務常任委員長などを務め、議会運営委員長時代には、議員定数削減に尽力した[要出典]。1995年4期目の当選直後に、全国最年少記録の37歳で市議会議長に就任した[要出典]。長からの議案付託直後に委員会を開会させるように37年ぶりに上尾市議会のシステムを改善させている[要出典]。都市合併推進論者で、議長就任直後から特に浦和市、与野市、大宮市による三市合併に上尾市を同時参加させようとする急先鋒だった。
上尾市議会議長就任直後に埼玉県第6区(当時)から衆院選への出馬のチャンスが巡って来るが、自民党公認争いで敗北[2]、無所属単独での国政転進もならなかった。
2000年2月に行われた上尾市長選挙に41歳の時立候補。上尾市がさいたま市へ合併するべきと主張、「変えなくっちゃ上尾」というキャッチフレーズのもと、合併反対を訴える現職の新井弘治市長と激突した。 この選挙は平成の大合併で揺れる上尾市のさいたま市との合併を住民に問う選挙であった。この選挙の後、2001年7月29日に合併特例法に基づく住民投票が実施されたが投票のおよそ6割ほどが合併に反対したこともあり、上尾市のさいたま市への編入は成立しなかった[3]。
上尾市長選挙落選後、7年間にわたる政治浪人生活に入る。大宮区の大学受験予備校講師となった後、2003年7月から衆議院議員武正公一の政策担当秘書となる。2006年6月に3年勤務した武正事務所を退職。民主党埼玉県第1区総支部幹事に就任した。2007年4月、埼玉県議会議員選挙に南9区(さいたま市浦和区)から民主党公認で立候補、初当選を果たした。現在、民主党埼玉県連常任幹事。同総務局長。2011年4月、埼玉県議会議員選挙において2期目当選。
脚注
- ^ 本人の公式サイトに、画像が保存されている。日経新聞(1987.01.01)
- ^ 自民党県連幹事長の野本陽一県議会議員による裁定にるもの。結局、厚生省出身の茶谷滋が公認されるものの彩福祉グループをめぐる汚職事件で逮捕され、その後6区では自民党が公認候補を擁立しない(連立与党の公明党・若松謙維を推薦)事態が続いた。
- ^ 住民投票で合併拒否さいたま市と絶えず比較
関連項目
外部リンク
- あさのめホームページ
- 埼玉県議会議員(浦和区) あさのめ義英活動日記
- 浅野目・義英 (y_asanome) - Twitter