津田武永

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津田武永
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 織田寛近→津田武永→宗伝(法名)
別名 武衛、通称:与十郎
官位 遠江守
氏族 岩倉織田氏(伊勢守家)津田氏
父母 父:織田広近
兄弟 織田寛広武永織田広忠
岡田時常
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津田 武永(つだ たけなが)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。名は武衛(ぶえい)とも。通称は与十郎。官位遠江守尾張国川村北城主。

略歴[編集]

尾張国岩倉城守護代「織田伊勢守家」の一族で木ノ下城主の織田広近の子として誕生。織田寛近(おだ とおちか/ひろちか)を名乗る。

文明年間に津田武永と名乗ったと推定される。文明7年(1475年)、父・広近の隠居により、尾張小口城でその家督を継ぎ、小口城主となる。後に尾張川村北城を築き居城とするが、男児がおらず、川村北城を娘婿の岡田伊勢守時常に譲った。長享元年(1487年)からの六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に斯波義寛に従い、出兵した。明応4年(1495年)、船田合戦では兄・寛広、叔父の織田紀伊守広遠らと共に石丸利光を攻めるため、美濃に出兵するが、「織田大和守家」の織田敏定の布陣中の死を知り尾張に引き返し、「織田大和守家」の進軍を妨害していた弟・広忠に加勢し寛定を討ち取った。

天文13年(1544年)8月、清洲三奉行の一人弾正忠家当主の織田信秀の要請で援軍を送る。

天文16年(1547年)7月頃に出家[1]。法名は宗伝。

脚注[編集]

  1. ^ 『開善寺過去帳』『異本葛藤集』『葛藤集』