法華津寛

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法華津 寛 Equestrian pictogram.svg
Beijing2008 HOKETSU Hiroshi.JPG
北京オリンピックでの法華津寛
個人情報
フルネーム Hiroshi Hoketsu
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1941年3月28日(72歳)
出身地 東京府
スポーツ
競技 馬術競技
クラブ アバロン・ヒルサイドファーム
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法華津 寛(ほけつ ひろし、1941年3月28日 - )は日本馬術選手、実業家アバロン・ヒルサイドファーム所属。

目次

経歴 [編集]

東京府出身。私立武蔵高等学校慶應義塾大学経済学部卒業後、日本石油に入社。

馬術を始めたのは12歳の時にサマーキャンプで馬に乗ったのがきっかけ。元外交官で極洋捕鯨の社長だった父親に頼んで、一部特権階級だけが入会を許されていた東京乗馬倶楽部に加入。学生時代から選手として数々の大会に出場。1964年に開催された東京オリンピックに出場し、障害飛越個人40位、同団体12位。

東京オリンピックの後に日本石油を退職し、デューク大学大学院へ留学し経済学専攻修士課程修了[1]。その後、外資系製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロシュジョンソン・エンド・ジョンソンを経て、1981年から同社傘下のオーソ・クリニカル・ダイアグノスティックス(Ortho-Clinical Diagnostics)に勤務(のちに社長に就任し、2002年に定年退職)。現役時代は、毎朝5時に起きて馬に乗り、それから出社していた[2]

35歳のときに目の衰えを感じ、同じく乗馬をする妻から馬場馬術を薦められて転向[3]1984年に開催されたロサンゼルスオリンピックは遂に名実共に「ホケツ」になってしまい、出場できなかった。その後、1986年アジア競技大会では馬場馬術個人、団体ともに2位となった。

1988年に開催されたソウルオリンピックでは出場権を確保したものの愛馬が出国検疫においてウイルス陽性反応を示してソウルへ輸送不可となり、出場を断念した。

その後株式会社オーソ(現在のオーソ・クリニカル・ダイアグノスティックス株式会社。ジョンソン・エンド・ジョンソンのグループ企業)社長に就任するなど実業家としても活躍していたが、定年退職後にオリンピック再挑戦を決意し2003年から家族を日本に残し単身でドイツアーヘンで馬術修業。

2008年開催の北京オリンピックでは、ウィスパー号とペアを組み、馬場馬術団体、同個人で出場。日本選手としては、ソウルオリンピックに馬場馬術で出場した井上喜久子を上回る史上最高齢(67歳)でオリンピックに出場した。44年ぶりの出場も史上最長記録。また、北京オリンピックに出場した全選手中でも最高齢であった[4]。馬場馬術個人の1次予選(同団体の決勝を兼ねる)では34位で1次予選落ち、団体では9位だった。

2012年3月1日にフランス・ヴィドーバンVidaubanでの国際大会で優勝し、翌3月2日に国際馬術連盟が発表したランキングでロンドンオリンピック出場枠を獲得[5]。この結果を受け、日本馬術連盟は3月5日に法華津をオリンピック代表に決定した。ロンドンオリンピックに出場し、自身の史上最高齢記録を塗り替える71歳での出場となった[6]。オリンピック史上においても1920年のアントワープオリンピックの射撃で銀メダルを獲得した、スウェーデンのオスカル・スヴァーンOscar Swahnの72歳10か月、1936年のベルリンオリンピックの馬術に出場した、オーストリアのアルトゥール・フォン・ポングラッツArthur von Pongraczの72歳1か月に次ぐ歴代3位の記録となる[7]ギネス・ワールド・レコーズは東京オリンピックからロンドンオリンピックまでの出場期間について最長の世界一を認定した[8]

2013年1月8日、「馬術を通じて永年にわたり馬事文化の発展及び振興に特に顕著な功績のあった」として、JRA賞馬事文化賞功労賞を受賞。

家系 [編集]

「法華津」姓は、戦国時代伊予国南部で活躍した海賊法華津氏法華津前延など)に由来する。祖父の法華津孝治は愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)出身で南亜公司(天然ゴム栽培業)社長、南洋協会長。父の法華津孝太は、奉天総領事館、ベルリン大使館勤務を経て外務省調査局長、極洋捕鯨(現極洋)社長・会長、山階鳥類研究所専務理事等を歴任。妻は小説家である北條誠(代表作は『緑はるかに』、『緑なる人』、『哀愁日記』など)の娘で、執権・北条時宗の子孫。娘が一人いる。

脚注 [編集]

関連項目 [編集]