法成寺

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法成寺址、京都市上京区荒神口通寺町東入北側

法成寺(ほうじょうじ)は、平安時代中期に藤原道長によって創建された、摂関期最大級の寺院。道長の主邸土御門殿の東にあたる鴨川西岸(東京極大路の東)に建てられ、京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなった。現在の京都市上京区東端にあった。荒神口通寺町東入の路傍、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に法成寺跡を示す石標が立てられている。

藤原道長は、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように、この世の栄華を極めたが、晩年浄土信仰に傾倒し、病に苦しんだことから、寛仁3年(1019年)に出家し、土御門殿に隣接する地に、九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に完成して無量寿院と号した。諸国受領の奉仕を受け、続けて十斎堂、講堂、経蔵、道長の正妻源倫子による西北院、金堂五大堂等と次々に堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。治安2年(1022年)には法成寺と寺号を改め、金堂・五大堂の落慶供養が盛大になされた。供養には道長の孫にあたる後一条天皇の他、東宮(後の後朱雀天皇)、いずれも道長の娘である太皇太后藤原彰子皇太后藤原妍子中宮藤原威子も参加し、その様子は『栄花物語』に詳しく描かれている。法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。

道長は法成寺で暮らしていたが、1027年、死に臨んで東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。

道長の死後も、長元3年(1030年)に上東門院により東北院が建立され、道長の嫡男頼通も新堂を建てる等、繁栄は続いた。天喜6年(1058年)2月23日に全焼したものの、頼通により直ちに再建された。この時本薬師寺から塔が移されたとする記録が残る。

その後、頼通嫡男の師実へと引き継がれたが、鎌倉時代に入りたびたび大火・兵火等の災難に遭遇して伽藍は荒廃した。14世紀前半、吉田兼好は『徒然草』の中で、無量寿院およびその9体の丈六仏と法華堂のみが残っていることを記し、世の無常の例えとしている。ただし、上東門院ゆかりの東北院のみは移転再興され、左京区浄土寺真如町に独立した寺院として現存する。

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座標: 北緯35度1分28秒 東経135度46分8秒 / 北緯35.02444度 東経135.76889度 / 35.02444; 135.76889