法成寺

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法成寺址、京都市上京区荒神口通寺町東入北側

法成寺(ほうじょうじ)は、現在の京都市上京区にあった寺院。藤原道長によって創建された、摂関期最大級の寺院。1020年(寛仁4年)に阿弥陀堂の建築が始まり、2年後に堂舎が完成。1058年(天喜6年2月23日)に全焼した後、再建されたがこの時本薬師寺から塔が移されたとする記録が残る。1219年(建保7年/承久元年)に再び全焼し廃絶した。《兼好が荒れ果てた伽藍を見たという『徒然草』の記事と矛盾している》京極御堂とも。

創建[編集]

法成寺は、藤原道長が建立した寺院である。晩年浄土信仰に傾倒した道長は、法成寺内に九体阿弥陀堂(無量寿院)の建立を発願した。その後次々と堂舎が建てられ、その規模は東西2町・南北3町に及び、伽藍は豪壮を極めた。『栄花物語』には、阿弥陀堂、金堂五大堂薬師堂釈迦堂、十齋堂、東北院、西北院などの様子が描かれている。

法成寺は平等院の範となった寺院でもあり、当時、鴨川方向から見れば、ちょうど宇治川方向から見た平等院のようであったと思われる。 なお、道長の日記とされている『御堂関白記』の「御堂」とは、この法成寺のことを指している。

道長の死[編集]

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)の歌でも知られるように、道長はこの世の栄華を極めたが、死に臨んでは自らの死後を案じ、1019年に出家、翌年には法成寺の礎となる無量寿院の造営に着手した。

1027年、死病を患った道長は、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦涅槃と同様、北枕西向きに横たわった。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。

廃絶[編集]

法成寺は1058年の大火で伽藍ことごとく焼失したものの、道長の子頼通は直ちにこれを再建した。そして、孫である師実へと引き継いだ。しかし、鎌倉時代に入り伽藍は荒廃。吉田兼好が世の無常を述べるために法成寺を引いていることから、その荒廃ぶりが推される。

たびたび大火・兵火等の災難に遭遇し、鎌倉末期に廃絶した。ただし、上東門院ゆかりの東北院のみは移転再興され、左京区浄土寺真如町に独立した寺院として現存する。

現状[編集]

現在では、法成寺跡を示す石標が荒神口通寺町東入の路傍、京都府立鴨沂高等学校校庭の塀際に残るのみである。

外部リンク[編集]