沓切坂

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沓切坂。坂下より
沓切坂。坂上より

沓切坂(くつきりざか)は東京都多摩市関戸6丁目にあるである。新田氏に纏わる史跡のひとつであり、『江戸名所図会』にもその名が見える。

歴史・概要[編集]

京王バスのバス停「坂下」付近。左の道が1902年開通の旧鎌倉街道、右の道が沓切坂へと続く古道

旧鎌倉街道の坂下バス停付近から旧関戸公民館方面に上る古道を沓切坂という[注 1]。かつては幅2メートル程の急坂の砂利道であったが[1]1973年に拡張・改修工事が行われ[1]、坂の傾斜もやや緩やかになった。このため、往時の面影は薄い。

現在の道が古い道筋を踏襲したものかどうかは定かではなく、元多摩市議会議員・同市議会議長の酒井宗一郎は、その著書『多摩市の郷土史』の中で、「本古道は現在の道よりももっと東側の崖上にあったと伝えられているが判らない」と述べている[2]。また、岡崎清記『今昔 東京の坂』では「現存しない坂」として紹介されている[3]

名称の由来[編集]

沓切坂の名称の由来には、主に2つの説がある。1つは新田義貞1333年元弘3年/正慶2年)、分倍河原の戦いの時に、この急坂を登るところで馬の沓[注 2]が切れたことに由来するというもの[4]。もう1つは新田義興1352年正平7年/観応3年)、鎌倉から足利尊氏を追った時に、この坂にかかったところで馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたことに由来するというものである[5]。多摩市の郷土資料には両説が併記されていることが多い。

関戸出身の文化人・相沢伴主1819年文政2年)から1836年天保7年)にかけて著した『関戸旧記』[注 3]とその草稿には次のように記されている。

當所南ノ方宿ハヅレニ坂アリ、是ヲ沓切坂ト云フ。傳ヘテ云フニ、太平記三十一ノ巻ニ、観應三年壬辰二月八日、義興、義宗、義治、武蔵野ノ合戦ニ敗軍シ鎌倉ヘ入ントシテ、夜半許ニ當所ニテ石堂、三浦ニ出合、一同鎌倉ヘ押行時、此坂ニテ馬ノ沓ヲトリ、是ヨリハダセニテ打入玉フ。依テ、此坂ヲ沓切坂ト云トイヘ共、其時ヨリ名ヅケタルニヤ不穏。府中ヨリ此坂迄ノ間渾テ砂利道ニテ、當所ハ殊ニ往来筋石多キナリ。此坂ヲ越レバ相模川ノ邊迄五六里ノ間砂利石等絶テナキ故、今ニ往来ノ馬皆此所ニテ沓ヲトルナレバ、何時ノ頃ヨリ名付タルヤ尤古ク云傳フ名ナリ。
— 『関戸旧記』沓切坂之事[6]
観応三年壬辰二月八日新田義貞義宗義治三将一族集て十万余騎 足利尊氏八万三千余騎 武蔵野小手指原に大いに戦ふ 新田方無利して二百余騎に打なさる 夜半計に当所へ着給ふ 爰におゐて石堂三浦五六十騎落合て鎌倉へ打入利を得給ふ 当所の南に坂あり沓切坂と言 此時爰より馬の沓を捨て趣かれしとて今に沓切坂と号
— 『関戸旧記草稿』太平記[7]

『江戸名所図会』の「巻之三 天璣之部」には次のように記されている。

下関戸の宿の南の坂を云。坂の上を古市場と唱ふ。昔商戸駅舎ありし地なり。…(中略)…相伝、正平七年閏二月八日武蔵野合戦の時、…(中略)…夜半過る頃関戸を過給ひけるに、石堂入道三浦介等の五六千騎の勢に出逢給ひ。神奈川を経、鎌倉に打入、勝利を得給ふ頃、此坂より馬の沓をとりはたせにて打給ふと。依て名とすといふ。
— 『江戸名所図会』巻之三 天璣之部[8][9][注 4]

郷土史家の見解・地元の伝承[編集]

菊池山哉は、「沓切坂は急坂なので、馬の沓が切れるので名づけられたと称し…」と述べるにとどまっている[10]。関戸在住の男性(大正8年生まれ)は、パルテノン多摩編『関戸合戦』の中で、沓切坂の道は尾根を切り開いて造られたものと語り、「沓切りか、口切りか、どっちかのことだな」と語っている[11]

伝説・芝居[編集]

1840年天保11年)に書き写された古記録『両和田村古今鏡』によれば、江戸時代初期の頃、上和田の領主・山中七左衛門が沓切坂で闇討ちに遭って殺害されたという[1][12][13]。この出来事は村中を騒がせ、やがて「和田騒動」という芝居になった[12]

山中新右衛門殿子息七左衛門殿二代也 右七左衛門殿代二短絶之義者、大塚邑ニ井上玄番と申者有、家来ニ孫六と申者越持、主従盗賊人なり、有時正月之事成ニ、乞田村吉祥院より関戸村江年始ニ被参候処、くつきり坂ニ而玄番主従侍居て七左衛門越奉討、家来迄討ちころし急ぎ和田屋敷江参、裏門ニ玄番侍居て表門より孫六高声ニて七左衛門殿ハ御上意越もって只今討れさせ給ひ候、何方へも思召ノ方江早々落させ給へ御注進とため御知らせ申候と、たからかに申候折節奥方ハ昼之八つ時の事なる歟、髪越洗ひていら連しが、あいて騒き、みだし髪ニて急ぎ早々取持、下女壱人召つれ裏門ニ出給う所越、玄番なさけなくも討候て、品々越はく取、日暮山江引取候也、然ル所ニ此もの後ニ他言致候て、露顕之懼無心元思ひて彼ノ孫六越即討すて申、依之其山越今ニ孫六山と申なり、此時山中氏断絶なり、是ハ井上玄番年寄の、ざんげの物語印置く
— 『両和田村古今鏡』[12]

論考[編集]

府中市郷土の森博物館副館長の小野一之は、パルテノン多摩編『関戸合戦』の中で、『太平記』をベースにして創られた伝説地として沓切坂、白明坂(府中市武蔵台北山町)、浅間山(府中市浅間町若松町)、松連寺日野市百草)などを挙げ、「当地が『太平記』に描かれる古戦場だったという認識を前提に、塚や丘やその他いろいろな視覚的に映る事物が総動員されて、『太平記』の小劇場がパノラマとして作られているのである」と述べている[14]

企画展[編集]

2006年11月30日から2007年3月12日まで、パルテノン多摩歴史ミュージアムにて企画展『多摩ニュータウン・坂物語』が開催された[15][16]。この企画展は多摩ニュータウン近辺の坂と人々とのかかわりを考えるというもので、会場では、沓切坂の名称の由来を紹介するパネルなどが展示されたほか、地図や由来が記された「さ・カード」が配布された[16]

さ・カード[編集]

全10枚、はがき大。表面に所在地、地図、現在の様子を写した写真、裏面に由来、参考写真などの情報が記載されている。

  • 沓切坂 - 裏面に参考として馬の沓の写真が掲載されている。
  • 諏訪坂 - 馬引沢1丁目。連光寺から諏訪神社に至る道の途中にある。
  • 長坂 - 鶴牧3丁目〜町田市小野路町。『新編武蔵風土記稿』にもその名がある[注 5]
  • 南の坂 - 諏訪3丁目。馬引沢の南に位置していたことから、その名が付いたといわれる。
  • 別当坂 - 落合2丁目。「べーとのさか」と読む。名前の由来は小山田別当有重からきているという説と近隣にある東福寺が落合白山神社の別当寺であったことに由来するという二説が伝えられてきた。
  • 山の婆坂 - 東寺方。坂名はこの坂の下に住んでいた老婆に因むといわれる。
  • 極楽の坂 - 聖ヶ丘3・4丁目と諏訪4丁目の間。この近辺はかつて極楽と呼ばれていたという。
  • 餅屋の坂 - 諏訪3丁目〜聖ヶ丘2丁目交差点付近。近隣に餅屋という屋号の家があったことから、その名が付いたといわれる。
  • コロゲット坂 - 貝取。この坂の下には処刑場があったといわれ、引っ張られる罪人の姿がまるで転がるようだったと語り伝えられている。
  • へっぴり坂 - 東寺方。坂を上るときに大きな屁をした者がいたことから、その名が付いたといわれる。

周辺[編集]

坂の中程まで上ると、右手に庚申塔への小さな階段が見えてくる。この庚申塔の型式は板状駒型[18]で、銘文には「西念寺・三左ェ門・権右ェ門・伝兵衛・○兵衛・角左ェ門・惣右ェ門・佐五右ェ門・庄右ェ門」とある(○は判読不能)[18]。坂を上りきると、直進か右の分岐になる。右手(市役所東会議室棟方面、旧関戸公民館裏)のケヤキの下には第六天を祀るがあり[19][20]、その向いに忠魂碑石碑がある[19][21]。直進すると左手に市役所東庁舎と第二庁舎があり、正面に市役所本庁舎が見えてくる。この辺り一帯は古市場(「ふるいちば」と読む)といい[19]室町時代末頃、が開かれた所という[19]。『関戸旧記』の「古市場之事」にも「右沓切坂ノ上ヲ、今、小名古市場ト云フ、古、市ノタチタル處ナルベシ」とある[6]。一方、坂を下ると、京王バスのバス停「坂下」に出て、更に進むと、霞ノ関南木戸柵跡(東京都指定文化財)や熊野神社が左手に見えてくる。バス停「坂下」の停名は、沓切坂の下にあたることに由来する[22]

合戦関連伝承地[編集]

関戸古戦場跡
無縁仏

沓切坂の周辺には関戸・分倍河原合戦に関わる伝承地が複数存在する。

鐘懸松
徳ヶ谷戸にあった松。義貞が北条軍を攻めるときに陣鐘を取り付けて進軍・退却の合図をしたという説[24][25]や、北条軍を追いやった義貞がそれまでの進軍の疲れを癒すために陣鐘を吊るして休息を取ったという説[26]がある。なお、この鐘は乞田の吉祥院のものと伝えられている[25]
鞍懸松
琴平社境内にあった松。義貞が鞍を懸けたという伝説がある[24]
弦巻橋
乞田交差点付近を流れる小川に掛かる橋。義貞が弓の弦を外して小休止したとも[1]、北条勢が弓弦を巻いて逃げたとも伝えられる[27]。現在は暗渠化されている[1]
八郎塚
北条軍のしんがりを務めて戦死した横溝八郎の墓。関戸古戦場跡近くの個人宅の庭先にある[19]
入道塚
横溝らと共に戦死した北条軍の安保入道父子の墓。関戸5丁目の個人宅の庭先にある[19]
無縁仏
関戸合戦で戦死した無名戦士の墓と伝えられる石塔[19]。京王バスのバス停「関戸」そばの石段の上にある[19]
笛吹峠
乞田(現・豊ヶ丘)の吉祥院の裏山を唐沢山といい、義興(義貞とする説もある[注 6])がこの山の尾根道を笛を吹きながら通ったことから、笛吹峠ともいう[28]
旗巻塚
関戸の小地名。北条軍が旗を巻いて後方に退却したところという伝説がある[29]
鞘井戸(三家井戸)
小野路町の小地名。義貞がこの水で刀を研いだという伝説がある[24]
どうよう塚
和田の伝承地名。雑兵の死体を寄せ集め、数か所に分散して埋めたという[24]

関連事業・行事[編集]

  • 1988年5月15日、「多摩市史談会」の主催による見学会(第41回見学会、案内者・比留間一郎)が開催された。
  • 2011年10月30日、多摩市市制施行40周年記念市民協働事業として、鎌倉時代の史跡を訪ね歩く『鎌倉街道「関戸・霞ノ関」まつり2011』が開催された。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同古道は、旧鎌倉街道と区別するために古鎌倉街道と呼ばれることがある。
  2. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』(多摩市、1992年)の「沓切坂」によると、くつわの説もあるという。
  3. ^ 原本は現存しない。和算家の伊野銀蔵が明治期に書写した写本が同家に所蔵されている。
  4. ^ 原本には「正平七年閏二月八日武蔵野合戦の時、新田義貞公…」とあるが、これは誤りである。『新版江戸名所図会 中巻』(角川書店、1975年)には「新田左兵衛佐義興の誤」との脚注がある。
  5. ^ 落合村 小名 長坂[17]
  6. ^ 『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』や『多摩市の文化財ウォッチング(解説編)』、『多摩のあゆみ 第55号』には義興とあり、『各駅停車 全国歴史散歩 13 東京都 下』や『趣味の古道』には義貞とある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 多摩市史談会編『郷土たま 第5号』多摩市史談会、1986年、21-22頁。 
  2. ^ 酒井宗一郎『多摩市の郷土史 改訂 上巻』酒井宗一郎、2002年、23頁。 
  3. ^ 岡崎清記『今昔 東京の坂』日本交通公社、1981年、410頁。 
  4. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、136-137頁。 
  5. ^ 道家剛三郎『東京の坂風情』東京図書出版会、2001年、560-561頁。ISBN 4-434-00689-4 
  6. ^ a b 多摩市史談会編『郷土たま 第2号』多摩市史談会、1983年、49頁。 
  7. ^ 多摩市教育委員会社会教育課・佐伯弘次編『杉田勇家所蔵文書 1』多摩市教育委員会、1987年、209頁。 
  8. ^ 斎藤幸雄ほか『江戸名所図会 中』評論社、1996年、465頁。ISBN 4-566-05264-8 
  9. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 428–429.
  10. ^ 菊池山哉『東国の歴史と史跡』東京史談会、1967年、236-237頁。 
  11. ^ パルテノン多摩編『関戸合戦』パルテノン多摩、2007年、66-67頁。 
  12. ^ a b c 多摩市史編集委員会編『ふるさと多摩 多摩市史年報 第6号』多摩市、1994年、40-50頁。 
  13. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、205頁。 
  14. ^ パルテノン多摩編『関戸合戦』パルテノン多摩、2007年、56-57頁。 
  15. ^ パルテノン多摩. “Museum News vol.5 ミニ企画展「多摩ニュータウン・坂物語」ほか” (PDF). 2009年12月30日閲覧。
  16. ^ a b 『東京新聞』2007年2月3日付朝刊、多摩版、24面『多摩ニュータウンの坂にスポット』
  17. ^ 新編武蔵風土記稿 落合村.
  18. ^ a b 多摩市教育委員会編『多摩市の石仏』多摩市教育委員会、1978年、35頁。 
  19. ^ a b c d e f g h 多摩市教育委員会社会教育課編集『多摩市の文化財ウォッチング(解説編)』多摩市教育委員会、1989年、4-10頁。 
  20. ^ 多摩市史編集委員会編『多摩市の民俗 信仰・年中行事』多摩市、1993年、57頁。 
  21. ^ 多摩市史談会編『郷土たま 第6号』多摩市史談会、1988年、35頁。 
  22. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、97頁。 
  23. ^ 多摩市教育委員会社会教育課編集『多摩市の文化財ウォッチング(解説編)』多摩市教育委員会、1989年、10頁。 
  24. ^ a b c d パルテノン多摩編『関戸合戦』パルテノン多摩、2007年、10-11頁。 
  25. ^ a b 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、96頁。 
  26. ^ 宮田太郎 2001, p. 16.
  27. ^ 横倉愛『中澤閑想記 2』新人物往来社、1990年、102-103頁。 
  28. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、113頁。 
  29. ^ 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年、138頁。 

参考文献[編集]

  • 「落合村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ97多磨郡ノ9、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763989/61 
  • 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 沓切坂」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、428-429頁。NDLJP:1174144/219 
  • 菊池山哉『東国の歴史と史跡』東京史談会、1967年
  • 石川悌二『東京の坂道』新人物往来社1971年
  • 多摩石仏の会編『多摩石仏散歩』武蔵書房、1971年
  • 鈴木棠三・朝倉治彦校註『新版江戸名所図会 中巻』角川書店1975年
  • 松岡六郎・吉田格編『多摩の歴史 7』武蔵野郷土史刊行会、1975年
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 13 東京都』角川書店1978年
  • 多摩市教育委員会編『多摩市の石仏』多摩市教育委員会、1978年
  • たましん歴史・美術館歴史史料室編『多摩のあゆみ 第17号』たましん地域文化財団、1979年。ISSN 0913-9680
  • 井上正吉『多摩のかたりべ』自費出版、1979年
  • 岡崎清記『今昔 東京の坂』日本交通公社、1981年
  • 伊佐九三四郎・檀上完爾『各駅停車 全国歴史散歩 13 東京都 下』河出書房新社1982年
  • 多摩市史談会編『郷土たま 第2号』多摩市史談会、1983年
  • 峰岸松三『多摩のふるさと 風土記図絵』多摩書店、1983年
  • 多摩市史談会編『郷土たま 第5号』多摩市史談会、1986年
  • 多摩市教育委員会社会教育課・佐伯弘次編『杉田勇家所蔵文書 1』多摩市教育委員会、1987年
  • 多摩市史談会編『郷土たま 第6号』多摩市史談会、1988年
  • 安田武義『趣味の古道』自費出版、1988年
  • 多摩市教育委員会社会教育課編『多摩市の文化財ウォッチング(解説編)』多摩市教育委員会、1989年
  • たましん歴史・美術館歴史史料室編『多摩のあゆみ 第55号』たましん地域文化財団、1989年。ISSN 0913-9680
  • 峰岸松三『落合名所図絵』多摩書店、1989年
  • 横倉愛『中澤閑想記 2』新人物往来社、1990年
  • 多摩市都市整備部都市計画課編『多摩市の町名(市政施行20周年記念)』多摩市、1992年
  • 多摩市史編集委員会編『多摩市の民俗 信仰・年中行事』多摩市、1993年
  • 府中市郷土の森事業団編『合戦伝説 新田義貞と分倍河原合戦』府中市郷土の森事業団、1994年
  • 多摩市史編集委員会編『ふるさと多摩 多摩市史年報 第6号』多摩市、1994年
  • 佐藤孝太郎『多摩歴史散歩 1』有峰書店新社、1995年
  • 斎藤幸雄ほか『江戸名所図会 中』評論社1996年ISBN 4-566-05264-8
  • 酒井宗一郎『多摩市の郷土史に関する年表 平成8年(1996)まで』自費出版、1999年
  • 『i(あい)多摩がすき(製本資料) 2000 Vol.18 - Vol.29』多摩ライフ&ワーク研究所、2000年
  • 道家剛三郎『東京の坂風情』東京図書出版会2001年ISBN 4-434-00689-4
  • 宮田太郎『鎌倉街道伝説』ネット武蔵野、2001年。ISBN 4-944237-06-5 
  • 酒井宗一郎『多摩市の郷土史 改訂 上巻』自費出版、2002年
  • 『ゼンリン住宅地図 多摩市 2005』ゼンリン2005年ISBN 4-432-21375-2
  • 多摩市教育委員会生涯学習部生涯学習推進課編『多摩市の文化財案内(地図) 改訂版』多摩市教育委員会、2006年
  • 多摩市文化振興財団編『多摩ニュータウンとその周辺のさカード パルテノン多摩歴史ミュージアム』多摩市文化振興財団、2006年
  • 東京新聞』2007年2月3日付朝刊、多摩版、24面
  • パルテノン多摩編『関戸合戦』パルテノン多摩、2007年
  • パルテノン多摩編『校歌の風景』パルテノン多摩、2008年
  • パルテノン多摩編『村医者と医者村』パルテノン多摩、2008年
  • 多摩市企画政策部広報広聴課編『多摩市の便利な本』多摩市、2009年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度38分19.4秒 東経139度26分53.3秒 / 北緯35.638722度 東経139.448139度 / 35.638722; 139.448139