池田敬子
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 女子 体操競技 | ||
| オリンピック | ||
| 銅 | 1964 | 団体総合 |
| 世界選手権 | ||
| 金 | 1954 | 平均台 |
| 銅 | 1966 | 団体総合 |
| 銅 | 1966 | 個人総合 |
| 銀 | 1966 | 段違い平行棒 |
池田 敬子(いけだ けいこ、旧姓・田中:1933年(昭和8年)11月11日 - )は、元女子体操競技選手で、指導者、教育者。体操ニッポンの先駆者と言える。広島県豊田郡鷺浦村(現:三原市)出身。
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[編集] 略歴
瀬戸内海の因島の西に浮かぶ佐木島の生まれ。原爆で父を亡くす。幼いころから山や川で遊び、水泳、バレーボール、ソフトボール、いろんなスポーツをする。三原高校で本格的に体操を始め、1952年、日本体育大学の女子1期生として入学。
1954年、大学2年19歳の時、日本の女子体操競技初の海外遠征、監督もコーチもなし、男子チームのお供の形として参加したローマ世界体操競技選手権で日本女子体操史上唯一の金メダルを平均台で獲得、華やかで美しいジャンプとターンで世界の体操ファンを魅了、「ローマの恋人」と呼ばれた。
以降、女子のリーダーとして体操ニッポンの黄金時代をリード。日体大に教員として残り1956年メルボルンオリンピック大会でゆか4位、団体6位、1958年モスクワ世界選手権、ゆかで銅メダル、 1960年ローマオリンピックで個人総合6位、段違い平行棒・平均台5位、団体4位。1962年プラハ世界選手権、平均台銅メダル。
この間結婚し1964年東京オリンピックの前年(1963年)、29歳で出産。協会に体操選手が出産とは何事かと怒鳴られたが反撥し、合宿で浴衣を裂いてオムツを作り川で洗濯したり育児をしながら練習した。日本はオリンピック団体6位、4位と成績が上がって東京では3位以内が絶対条件のプレッシャーの中、女子選手で唯一三大会連続出場して銅メダルを獲得した。更に1966年ドルトムント世界選手権で個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダル。この間、全日本選手権個人総合で5連覇を含む優勝10回[1](いずれも史上最多)。
当時ママさん体操選手は世界でもほとんどいなかったが、最後の世界選手権(ドルトムント)は個人総合銅メダルを取り、他国の選手と並んで表彰台に立った。33歳になっても日本ではジュニアが育っていないことを痛感し、正式に引退を表明する前にジュニア育成のクラブを作った。36歳で引退するまで、赤の長袖レオタードにハーフシューズ姿で現役選手として頑張りぬいた。
その後は指導者として人一倍精力的な活動を続け、1975年全日本ジュニア体操クラブ協議会設立に奔走、女性唯一の役員(副理事長、のち専務理事)、1978年全日本ジュニア体操競技大会、1989年国際ジュニア体操競技大会を開催。全日本ジュニア体操クラブ連盟理事長、日本体操協会副会長、NHK 経営委員、テレビ朝日番組審査委員、2008年オリンピック・パラリンピック(横浜)策定部会長など多くの役職を歴任。母校日体大の名誉教授、副学長を務めて2003年退職。2002年、日本体操女子で初めて国際体操殿堂(International Gymnastics Hall of Fame)入りした。現在、花園大学客員教授。
2009年自らの自伝「人生、逆立ち・宙返り」を執筆。小学館から発行した。
体操クラブでは岡崎聡子、野沢咲子らを育てている。日本体育大学でも助手、助教授、教授として多くの学生選手を育て上げた。1980年頃から郷里・広島県内でも「ジャンピング体操スクール」を立ち上げ指導してきたが2007年11月、中国地方で初めての民営の体操専用体育館を鈴峰学園の敷地内に建設した[2]。 三原市名誉市民[3]。
[編集] 主な戦歴
- 1953年(昭和28年)体操全日本選手権大会 優勝
- 1954年(昭和29年)体操ローマ世界選手権大会 平均台金メダルほか
- 1956年(昭和31年)メルボルンオリンピック 体操徒手4位入賞ほか
- 1958年(昭和33年)体操モスクワ世界選手権大会 徒手銅メダルほか
- 1960年(昭和35年)ローマオリンピック 体操女子個人総合6位ほか
- 1962年(昭和37年)体操プラハ世界選手権大会 団体銅メダルほか
- 1964年(昭和39年)東京オリンピック 体操女子個人総合6位ほか
- 1966年(昭和41年)体操ドルトムント世界選手権大会 個人総合銅メダルほか
- 1978年(昭和53年)日本体育大学教授に就任
- 1997年(平成9年)日本体操協会副会長に就任