江戸三鮨

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江戸三鮨(えどさんすし)は寿司文化が花開いた江戸時代に三大名物として謳われた寿司店。 与兵衛寿司(よへいすし)、松がすし(まつ-)、毛抜鮓(けぬしすし)が数えられている。 江戸前寿司寿司#歴史も参照のこと。(本稿では「鮓」、「鮨」、「寿司」、「すし」、「ずし」の表記の揺れがあります)

目次

[編集] 与兵衛寿司(與兵衛寿司)

1824年両国尾上町(東両国)回向院前に華屋与兵衛(1799年 - 1858年、小泉與兵衛とも)が華屋として開業、大繁盛した。 すしに山葵を使ったのは與兵衛が最初であるため、一般的には「與兵衛が握り寿司を考案した」とされる。 しかし、華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は関東大震災の影響もあり、 1930年(昭和5年)に閉店。

なお、現代の和風レストランチェーン華屋与兵衛とは関係が無い。

[編集] 安宅松が鮨(松のすし)

1830年深川安宅六軒堀(戒橋畔、現在の東京都江東区新大橋付近)に堺屋松五郎が松ヶ鮨を開店。江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われた。 そのため「松カ鮓 一分ぺろりと 猫がくひ」「本所一番阿他家安宅の鮓 高名当時並ぶべきなし 権家の進物三重の折 玉子は金の如く魚は水晶」などと当時の川柳、狂歌などに詠まれている。 歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」にも登場しているが、描かれているのは握り寿司と押し寿司である。 「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん、1829年)」の記述から、握り寿司の考案者は與兵衛ではなく松が鮨だとする説もある。 あまりの贅沢さから水野忠邦の発した倹約令にかかり、与兵衛寿司とともに逮捕されている。

[編集] 毛抜鮓

1702年元禄15年)に初代松崎喜右衛門が竈河岸(へっついがし、現在の東京都中央区日本橋富沢町付近)にて創業。現在主流の江戸前寿司(握り寿司)以前の寿司の形態(押し寿司、なれ鮨)を色濃く残している。 笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めのでしめてあるのが特徴である。寿司だねも塩漬けで1日、酸味の強い酢(一番酢)で1日、次に酸味の弱い酢(二番酢)で3から4日漬ける。 このように早ずし(握り寿司)が流行する以前は、寿司は調理するのに時間がかかり高級品であった。そのため、当時は大名の江戸藩邸や旗本諸侯からの接待品あるいは贈答品としての注文が主であったと伝えられる。 屋号の一部「毛抜」とは毛や骨を抜く道具「毛抜き」のことで、これを使用して丁寧に寿司だねの魚の骨を抜いていたことから命名されたともいわれているが、西沢一鳳による『皇都午睡』には、毛抜は食欲旺盛の意味だと推定される旨の記述があり、屋号の由来は定かではない。 現在は12代目で、「笹巻きけぬきすし総本店」として東京都千代田区神田小川町で営業が続いている老舗である。

[編集] 関連事項

  • 守貞謾稿』 - 喜田川守貞による江戸風俗事物事典。
  • 『皇都午睡』(みやこのひるね) - 西沢一鳳(江戸期の戯作者)によるエッセイ。1850年刊行。

[編集] 参考文献

  • 『華屋与兵衛謎の生涯』馬場啓一著 ISBN 4931391885
  • 笹巻けぬきすし総本店のパンフレット
  • 日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET

[編集] 外部リンク