民主社会中道・人民党

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ポルトガルの旗 ポルトガルの政党
民主社会中道・人民党
CDS - Partido Popular(CDS-PP)
Cds simbolo 2.png
CDS-PPロゴ
党首 パウロ・ポルタス
成立年月日 1974年7月19日
本部所在地 ポルトガルの旗 ポルトガルリスボン
共和国議会議席数
24 / 230   (10%)
(2011年6月17日)
党員・党友数
15,000人[1]
(2007年)
政治的思想・立場 キリスト教民主主義
保守主義[2]
公式サイト www.cds.pt
国際組織 欧州人民党
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民主社会中道・人民党(みんしゅしゃかいちゅうどう・じんみんとう、ポルトガル語: Centro Democrático e Social-Partido Popular、略称:CDS-PP)は、ポルトガル中道右派政党国際民主同盟及び欧州人民党に加盟。選挙の際は「人民党」と名乗ることが多い。現在党首パウロ・ポルタス

歴史[編集]

結党[編集]

カーネーション革命後の政治的混迷の最中に結成。翌年1月25日にはポルトロザ・モタ・パビリオンにて初の党大会を開催する。

カーネーション革命に抗して[編集]

1975年3月25日以後、時の政権が主要産業国有化に踏み切ったことを受け、党は公式に野党を表明。また、翌年4月2日には社会主義色が濃い憲法の批准にも16名の議員が国内の政党の中で唯一反対を投じており、同年の選挙共産党を上回る42議席を獲得した。

民主同盟[編集]

1979年には社会民主党及び人民君主党と中道右派政党連合民主同盟」(Aliança Democrática、AD)を結成。社会民主党のフランシスコ・サ・カルネイロ率いる民主同盟は、同年と翌年の選挙で勝利し政権与党となった。

サ・カルネイロを首班とする民主同盟政権において人民党は、5名の閣僚及び10名の国家評議会員を輩出、またディオゴ・フレイタス・ド・アマラル党首が副首相兼外務大臣に就く。

しかし、1980年12月4日にサ・カルネイロ首相、アデリノ・アマロ・ダ・コスタ国防相らが飛行機事故により死亡すると、ド・アマラルが新政権発足まで首相を務める(後任は社会民主党党首のフランシスコ・ピント・バルセマン)。1981年9月4日、ド・アマラル党首辞職に伴い政権が崩壊し民主同盟にも終止符が打たれる。

野党の20年間[編集]

民主同盟の崩壊後、アドリアノ・モレイラ新党首の下で党体制の刷新を図るも、退潮を止めることが出来ず1期限りで党首を降りる。その後ド・アマラルが党首に返り咲いてもこの傾向は変わらず、アニバル・カサヴォ・シルヴァ率いる社会民主党の後塵を拝し、一時は4議席(後に5議席)にまで後退。1992年にはド・アマラルが党を離れる。

ド・アマラルの離党後の同年3月、第10回党大会にてマヌエル・モンテイロが党首に選ばれ、翌年の臨時党大会で スペインの同名の政党を模範とすべく、党名に人民党が加わる。 1995年の議会選挙で15議席を獲得し党勢が回復したものの、1997年地方選挙で敗北を喫する。この結果を受けモンテイロが党首を辞任し、ブラガで開かれた党大会にてパウロ・ポルタスが党首に就任。ポルタスは1999年の議会選挙で現有議席を確保することなどを確約し、見事公約が果たされることとなる。

「民主連合」[編集]

2001年の地方選挙と翌年議会選挙で大敗後、社会党グテーレス首相が辞任。一方、社会民主党が比較第1党となったことから、20年振りに人民党との連立政権が復活する。その際人民党は3名の閣僚(ポルタス国防相、バガン・フェリスBagão Felix社会保障相、セレステ・カルドナ法務相)を輩出。

2004年バローゾ首相が辞職し欧州委員会委員長となったのに伴い、ロペスを首班とする新たな社会民主党・人民党連立政権が誕生。だがロペス首相は国民からの人気が今一つだったため4ヶ月で辞任、議会も解散し議会選挙へと突入する。

2005年ポルトガル議会選挙以後[編集]

議会選挙では、人民党が議会第3党の維持と社会党の絶対多数阻止を掲げ選挙戦を展開。その結果10%の得票率を得たものの、現有14議席から2議席減らす12議席を得たに留まった。

選挙での惨敗と連立相手であった社会民主党の敗北を受け、ポルタスが党首の座を降りホセ・リベイロ・カストロが新党首となった。しかし2007年5月にはポルタスが党首に返り咲く。ポルタスの下で党は息を吹き返し、2009年の議会選挙にて21名が当選し躍進する。

中絶に対する立場[編集]

プロライフ政党としての立場から、中絶合法化には強く反対する。1998年及び2007年実施の中絶合法化の是非を問う国民投票では、何れも反対キャンペーンを展開。なお、党自体は非合法中絶と中絶自体が抱える問題を解決するべく、「生命に対する権利」に基づく代案を出している。

党勢の推移[編集]

選挙年 総得票数 得票率 当選者
1975 434,879 7.6% 16
1976 876,007 16.0% 42
1979 2,554,458 42,5% 42
1980 2,706,667 44,9% 46
1983 716,705 12.6% 30
1985 577,580 10.0% 22
1987 251,987 4,4% 4
1991 264,317 4.4% 5
1995 534,470 9,0% 15
1999 451,543 8,3% 15
2002 477,350 8,7% 14
2005 416,415 7.3% 12
2009 592,778 10.4% 21
2011 653,987 11.7% 24

※1979、1980年の選挙は民主同盟での集計。

脚註[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]