毒麦のたとえ

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毒麦のたとえ(どくむぎのたとえ)とは、マタイによる福音書13章24-43節でイエス・キリストが語られたたとえ。

主イエス・キリストの説明によると、毒麦とは悪い者である悪魔に蒔かれた子らであり、その者らは世の終わりの時に、御使いに刈り取られて、火で焼かれる。[1]

聖書[編集]

イエス・キリストのたとえ

「また他の譬を示して言ひたまふ『天國は良き種を畑にまく人のごとし。人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ。苗はえ出でて實りたるとき、毒麥もあらはる。僕ども來りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麥あるか」 主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を拔き集むるを欲するか」主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』」


マタイによる福音書13:24–30、文語訳聖書

イエス・キリストによる解説

「ここに群衆を去らしめて、家に入りたまふ。弟子たち御許に來りて言ふ『畑の毒麥の譬を我らに解きたまへ』答へて言ひ給ふ『良き種を播く者は人の子なり、畑は世界なり、良き種は天國の子どもなり、毒麥は惡しき者の子どもなり、之を播きし仇は惡魔なり、收穫は世の終なり、刈る者は御使たちなり。されば毒麥の集められて火に焚かるる如く、世の終にも斯くあるべし。人の子その使たちを遣さん。彼ら御國の中より凡ての顛躓となる物と不法をなす者とを集めて、火の爐に投げ入るべし、其處にて哀哭・切齒することあらん。其のとき義人は父の御國にて日のごとく輝かん。耳ある者は聽くべし。」


マタイによる福音書13:36–43、文語訳聖書

神学[編集]

キプリアヌスは、このたとえで分派に反対した[2]アウグスティヌスドナティスト論争で、毒麦のたとえを用いて、教会の分裂を非難した。マルティン・ルターはアウグスティヌスの立場を採用した。ジャン・カルヴァンはより徹底して見える教会見えない教会を区別した。[3][4]

クラス・ルーニアは20世紀のプロテスタント内に起こった『現代の宗教改革』の中で、毒麦のたとえは教会ではなく、世に対して言われたことであって、マタイ18章により、つまづきとなるものは教会から排除しなければならないとしている。すべての「教会」が真の教会ではないとし、分離を「究極的救済手段」と呼ぶルーニアは、改革の余地のない背教した教会からは離れて、キリスト教信仰を告白する者と交わりを持つことは分派ではないとするマーティン・ロイドジョンズの「レイスター会議報告書」を引用している。ルーニアは戒規なしに教会が直接、主に守られることはないとする。[5]

岡山英雄は、進化論の影響を受けた社会的福音などでは、「毒麦の成長」が軽視されていたと指摘し、終わりの時代には毒麦が生長して、教会は患難を受けるとしている。[6]

脚注[編集]

  1. ^ マタイ13:36–43、訳語は『新共同訳聖書』、『新改訳聖書
  2. ^ 『ニケヤ会議前の教父全集』「キプリアヌス書簡」54の3
  3. ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』教文館
  4. ^ アリスター・マクグラス『宗教改革の思想』教文館
  5. ^ クラス・ルーニア現代の宗教改革』小峯書店
  6. ^ 岡山英雄『子羊の王国』いのちのことば社