段煨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
段煨(だん わい、? - 209年)は、中国の後漢時代末期の武将、政治家。涼州武威郡の人。
目次 |
[編集] 事跡
| 姓名 | 段煨 |
|---|---|
| 読み・ピンイン | だんわい〔Duàn Wēi〕 |
| 時代 | 後漢時代 |
| 生没年 | 生年不詳 - 209年(建安14年) |
| 字・別号 | 〔不詳〕 |
| 本貫・出身地等 | 涼州武威郡 |
| 職官 | 中郎将〔董卓〕→寧輯将軍〔後漢〕 |
| 爵位・号等 | - |
| 陣営・所属等 | 董卓→〔独立勢力〕→曹操 |
| 家族・一族 | 〔不詳〕 |
董卓配下の部将。初平2年(191年)、反董卓連合の孫堅に董卓軍の胡軫、呂布らが敗れ、葉雄(華雄)が戦死する。孫堅の進攻に備えるためとして、董卓の命により中郎将段煨は華陰に駐屯した[1]。段煨による華陰の統治は、農業に勤しみ、略奪を行わないなど、堅実なものであり[2]、董卓死後数年に渡り華陰に留まっていたと見られる。
興平2年(195年)冬、李傕・郭汜の乱を避けて献帝が長安より華陰に避難してくると、寧輯将軍となっていた段煨は衣服などを提供して供応し、自陣に迎えようとした。しかし、献帝を護衛していた後将軍楊定と不仲であり、結局その攻撃を受けることになったため、果たせなかった[3]。ただ、この間も、段煨は自らには私心が無いことを証するために、献帝や百官への奉仕を怠らなかった。その後、李傕、郭汜が、段煨を救援して楊定を挟撃したため、楊定は荊州へと敗走した[4]。
またこの頃、李傕の部下であった賈詡が、同郡出身の縁故から段煨を頼ってきている。段煨は賈詡の才を恐れながらも優遇したが、賈詡もその内心を見抜いて、まもなく張繍の下へと去った。しかし、残された賈詡の家族を、段煨は丁重に扱っている[5]。
建安3年(198年)、謁者僕射裴茂が李傕討伐に向かうと、段煨はその指揮下に入り、李傕を誅滅した[6]。その後は、入朝して大鴻臚、光禄大夫となり、建安14年(209年)に死去した[7]。
[編集] 物語中の段煨
『三国演義』でも史実同様に、洛陽へ向かおうとしていた献帝を華陰で饗応している。その後、曹操に敗れて敗走した李傕を討ち取ってその首級をとり、あわせて李傕の一族老幼200余名も捕え、許都で曹操に献上した。この功績により、盪寇将軍に任命されている。その後は、物語から姿を消す。
[編集] 注
- ^ 范曄『後漢書』列伝第六十二「董卓伝」本伝
- ^ 陳寿『三国志』魏書第十「賈詡伝」注『典略』
- ^ 『後漢書』董卓伝注袁宏『漢紀』によると、段煨は楊定への警戒から、献帝の輿を迎える際に、馬上から下りずにこれを迎えた。そのため、楊定と親しかった侍中種輯が段煨は叛逆すると讒言し、さらに、楊定や董承は「郭汜が700騎を率いて段煨の陣営に入ろうとしています」と告げたため、献帝は段煨の陣営から離れたという。
- ^ 『後漢書』董卓伝本伝
- ^ 『三国志』賈詡伝本伝
- ^ 『後漢書』董卓伝本伝
- ^ 『三国志』賈詡伝注『献帝紀』

