横浜米軍機墜落事件

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横浜米軍機墜落事件(よこはまべいぐんきついらくじけん)とは、1977年9月27日に発生した航空事故である。

目次

[編集] 事件の経緯

1977年9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海軍の戦術偵察機(RF-4BファントムⅡ611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュート神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、航空救難団に収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋を炎上させた。

この事件の映像を偶然近郊の小学校の運動会でビデオを取っていた観客がとらえており、その映像はTBSのニュースフィルムに残っており、数年前「カメラがとらえた決定的瞬間」で紹介されている。

墜落地周辺では、火災により一般市民9名が死傷、うち男児2名の兄弟が翌日死亡した。また、兄弟の母親である女性は全身にやけどを負い、皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返したのち、精神科単科病院に転院し、事故から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。NHK加賀美幸子アナウンサーは、号泣しながらこのニュースを伝えた。最終的には死亡者が3名に上る惨事となった。

転院に関して遺族は「半ば強制的」であったと主張している(#参考図書『「あふれる愛」を継いで』を参照)。

[編集] 愛の母子像

遺族が寄贈し1985年に設置された「愛の母子像」(山本正道作)と2006年に設置された碑文台座には「愛の母子像 あふれる愛を子らに」と記されている。
遺族が寄贈し1985年に設置された「愛の母子像」(山本正道作)と2006年に設置された碑文
台座には「愛の母子像 あふれる愛を子らに」と記されている。

1985年遺族の要望により、横浜市へ寄贈する形で港の見える丘公園フランス山地区に、犠牲者をモデルとした「愛の母子像」というブロンズ像が設置された。行政側は当初、都市公園法の解釈を理由に、本件に関わる説明の設置を認めず、遺族側が「あふれる愛をこの子らに」と予定していた台座の文に関しても同法に抵触すると主張、妥協として「この」を削った「あふれる愛を子らに」とされ、予備知識がない限り本件の記念碑であるという認識が困難な状態が続いていた。 そのため市民から疑問の声が相次ぎ、2005年2月の中田宏市長定例記者会見の中での回答以降、翌2006年1月に事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されたが、像設置から碑文設置まで約21年の歳月が費やされた。 ⇒#外部リンク参照

[編集] 参考図書

  • 『パパ ママ バイバイ』(2001年2月) - 早乙女勝元・作 門倉さとし・詩 鈴木たくま・画、日本図書センター ISBN 4820566113
    • 本件を題材にした早乙女勝元原作の絵本。初版は1979年草土文化刊。劇場用アニメーションも作成された。
  • 『米軍機墜落事故』(1981年9月) - 河口栄二・著、朝日新聞社
  • 『あふれる愛に』(1982年5月) - 土志田和枝・著、新声社
    • 土志田 和枝(どしだ かずえ、1950年 - 1982年、本件被害者である母親)による手記。
  • 『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月) - 早乙女勝元・編、草土文化
  • 『「あふれる愛」を継いで-米軍ジェット機が娘と孫を奪った』(2005年9月) - 土志田勇・著、七つ森書館 ISBN 4822805077
    • 内容に関しては#外部リンクを参照。著者は、本件被害者である母親の実父。
  • 『米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ』〈改題『「あふれる愛」を継いで』〉 - 土志田勇・著、七つ森書館 ISBN 4822807566
  • 『ウワーッ!飛行機が落ちてくる―横浜米軍ジェット機墜落』(2006年9月) - 斎藤淑子・著、光陽出版社 ISBN 9784876624393
  • 『「愛の母子像」ものがたり』(2007年9月) - 斎藤真弘・編、横浜・緑区米軍機墜落事故平和資料センター(自費出版冊子)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

被害者女性の父親によって創設された。
なお、この会見以前は市民の疑問に対し市側の見解は“説明板設置の予定はない”としていた。