梅叔鸞

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梅叔鸞(ばいしゅくらん、ベトナム語:Mai Thúc Loan、? - 722年)は、またの名を梅玄成Mai Huyền Thành)ともいい、ベトナム梅朝唯一の君主である。当時のベトナム北部は、中国王朝の支配するところであり、梅叔鸞はベトナム史において唐朝に反抗した指導者として名を残している。しかし梅叔鸞が帝を称したのはわずか1年間であり、722年には唐朝によって滅ぼされた。諡号黒帝といい、このため梅黒帝Mai Hắc Đế)とも史称される。

経歴[編集]

梅叔鸞は枚埠地方の貧家に生まれ、のちに玉征にうつった。長期にわたる肉体労働のため、かれの四肢は頑健で、肌色は浅黒くなったという。

624年、唐朝が交州都護府を設置して以後、北ベトナムは唐朝に隷属する期間がつづき、貢租賦役の負担は重く、ベトナム現地の人々の唐朝支配に対する鬱積は蓄積していた。722年、梅叔鸞は沙南を根拠地として唐朝に反抗し、衛山付近に万安城を建て、帝を称してここに都を置いた。梅叔鸞は、駱州都護府や山岳部の少数民族、また隣国のチャンパ真臘と連係し、北上して交州都護府の治所の宋平を攻め落とした。いっとき、唐朝のベトナム支配は失われ、梅叔鸞の建てた梅朝がベトナムを支配した。

そののち、唐の囲州を攻撃中に、唐朝の皇帝玄宗楊思勗を司令官に十万の大軍を動員して梅叔鸞を攻撃した。梅叔鸞の軍隊は大敗して、梅叔鸞は戦死した。(『旧唐書』では捕らえられた上で処刑されたとする)。梅朝はここに滅んだ。