桜井鐐三

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桜井 鐐三
生誕 1897年1月15日
日本の旗 日本 愛知県
死没 (1947-03-09) 1947年3月9日(50歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1918年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
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桜井 鐐三(さくらい りょうぞう、1897年明治30年〉1月15日 - 1947年昭和22年〉3月9日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

愛知県出身。戸籍上では桜は旧字体の櫻(櫻井鐐三)である。父・櫻井武愷宮之亟、母・三保の三男として生まれる。陸軍士官学校30期生。

経歴[編集]

  • 1918年(大正7年)
    • 5月27日 陸軍士官学校卒業
    • 12月25日 陸軍少尉
  • 1927年(昭和2年)12月26日 陸軍大学校入校
  • 1930年(昭和5年)11月27日 陸軍大学校(42期)卒業
  • 1934年(昭和9年)3月5日 満州里特務機関長(昭和10年12月2日まで)
  • 1938年(昭和13年)
  • 1939年(昭和14年)
  • 1941年(昭和16年)5月15日 陸軍省兵務局附(調査部附)
  • 1943年(昭和18年)
    • 3月1日 陸軍省調査部長[1]
    • 8月2日 陸軍少将
  • 1945年(昭和20年)
    • 4月1日 第1方面軍参謀長[1]
    • 8月22日 中国東北部(旧・満州)でソ連軍の捕虜となる[1]
  • 1947年(昭和22年)
    • 2月 モスクワ・レフォルトボ刑務所に収容される[1]
    • 3月1日 最高裁軍事法廷が反ソ・スパイ容疑で審理し、尋問・合議を経た後に銃殺刑を宣告[1]
    • 3月9日 刑が執行される[1]
  • 1995年(平成7年)8月 「全国抑留者補償協議会」がロシア軍事検察局に調査を依頼し、軍事検察局の再審査により無実が認められ、名誉回復措置が取られた[1]

家系図[編集]

櫻井清香の同項目を参照のこと

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 「反ソ・スパイ罪はでっち上げ 抑留中銃殺された旧関東軍少将 48年ぶり名誉回復 全抑協が資料発掘 露当局が再審査」『毎日新聞』、1995年8月11日、29面。

親族[編集]