桑田安三郎

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桑田安三郎

桑田 安三郎(くわた やすさぶろう、1874年明治7年)1月23日[1] - 1931年昭和6年)2月21日[1])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

人物・来歴[編集]

広島県出身[1][2]1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業[1][3]。翌年1月、砲兵少尉に任官[3]第11師団参謀などを経て[要出典]1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を卒業[1][2](15/45席)[要出典]日露戦争時に乃木大将率いる第3軍に第11師団参謀として参加[要出典]

1916年(大正5年)2月、野戦砲兵第11連隊長に就任し、同年11月、砲兵大佐に昇進[2]1918年(大正7年)7月、侍従武官となった[2]。1921年(大正10年)3月少将に昇進[2]1924年(大正13年)12月、野戦重砲兵第1旅団長に発令された[1][2]1926年(大正15年)3月、陸軍中将に進むと同時に待命となり、同月、予備役編入となった[1][2]。同年4月正四位(特)勲三等功四級に叙せられる[要出典]

戦績[編集]

日露戦争に第11師団参謀で出征、旅順攻囲戦に参加、戦闘の新様相を解さぬ頑迷な老将連の、無謀無為な攻撃命令を機知を以て再三未然に防止(回避)したという。たしかにこの大戦は陸大教育そのものの真価が問われる試金石であったとも見られる。ともあれ日露戦争で戦死した陸大出身23名のうち、参謀は2名だけであとはすべて隊付きとして戦死したという実情は、当時の軍当局が、いかに陸大教育を軽んじていたかを物語っているといえよう[4]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』290頁。
  2. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』127頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124、127頁。
  4. ^ 「陸軍大学校全人録」-3485名の栄光と終焉- より引用。
  5. ^ 『官報』第4101号「敍任及辞令」1926年4月28日。

参考文献[編集]

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 甲斐克彦著『陸軍大学校全人録』槇書房、1971年。