桂庵玄樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
桂庵玄樹の墓(鹿児島市伊敷二丁目、桂庵公園内)

桂庵 玄樹(けいあん げんじゅ、1427年応永34年)- 1508年6月28日永正5年6月1日))は、薩南学派を形成した臨済宗の僧侶。

長門国赤間関出身。9歳のとき出家し、上京して京都南禅寺惟肖得巌景徐周麟らに学んだ。その後、豊後国万寿寺に赴いて学問を学び、大内義隆に招かれて郷里長門国永福寺住持となったが、1467年には遣明船の三号船士官となってに渡海して蘇州などを遊学する。1473年日本に帰国したが、応仁の乱による戦禍から逃れるため、石見国に避難した。1478年島津忠昌に招かれて大隅国正興寺日向国竜源寺の住持となる。さらに島津忠廉に招かれて、薩摩国の桂樹院で儒学を講じた。また、伊地知重貞と『大学章句』を刊行(1481年)して宋学の普及に努めたことから、薩南学派の祖として名を成した。

日本で初めて朱熹の『四書集註』を講義した岐陽方秀が施した訓点を玄樹が補正し、更にそれを文之玄昌が改訂したのが「文之点」である。文之点は、近世、四書読解の主流となった。

その後、建仁寺南禅寺の住持となり、1502年に薩摩に東帰庵を営んで同地に住んだ。1508年、82歳で死去。著書に『家法倭点』、『島陰文集』、『島隠漁唱』など多数ある。