林月雲

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林月雲
個人情報
生誕 (1915-09-08) 1915年9月8日
大日本帝国の旗 日本統治下台湾台中州彰化郡和美庄柑子井[1]
死去1992年6月19日(1992-06-19)(76歳)
居住地大日本帝国の旗 日本統治下台湾中華民国の旗 中華民国
出身校彰化女子公学校
彰化高等女学校
活動期間1928年 - 1980年
配偶者
葉肇卿
(m. 1945; 死別 1992)
スポーツ
大日本帝国の旗 日本統治下台湾
競技陸上競技
種目三段跳走幅跳短距離走
大学チーム日本女子体育専門学校
成績・タイトル
国内大会1931年全台湾陸上競技大会:三段跳優勝
自己ベスト
  • 三段跳:11m51(1932年)
  • 走幅跳:5m39(1937年)
  • 50m:7秒6秒(手動、1928年)
  • 100m:12秒5秒(手動、1937年)
  • 200m:27秒2秒(手動、1934年)
  • 80mH:12秒6(手動、1935年)
獲得メダル
大日本帝国の旗 日本統治下台湾
陸上競技
日本陸上競技選手権大会
1931 東京 三段跳
1933 東京 三段跳
1934 西宮 100m
1935 東京 100m
1935 東京 80mH
1935 東京 4×100mR
1937 東京 走幅跳
関東学生陸上競技対校選手権大会
1933 三段跳
最終更新日 2016年9月4日

林 月雲(りん げつうん、英字表記:Lim Goat-hun、1915年9月8日 - 1992年6月19日[2])は、日本統治時代の台湾陸上競技選手。日本女子体育専門学校[1]オリンピック日本代表の候補に2度選出され、もし出場が実現していれば、台湾初の女子オリンピック選手となる選手であった[3]

経歴[編集]

1915年(大正4年)、日本統治時代の台湾の台中州彰化郡和美庄(現・彰化県和美鎮)柑子井に生まれる[1]。彰化女子公学校を卒業後、彰化高等女学校(現・国立彰化女子高級中学中国語版)に進学する。1931年(昭和6年)彰化高女在学中、台湾籍の女性として初めて明治神宮体育大会(第6回)に出場し、三段跳で2位に入賞した[1]1933年(昭和8年)の第7回明治神宮体育大会では三段跳で優勝、100mで12秒5、走幅跳で5m39と2種目で台湾記録を樹立した[4]

1933年(昭和8年)、日本女子体育専門学校(体専、現・日本女子体育大学)に進学する[1]。体専では三段跳・100m・走幅跳に加え、80メートルハードルでも活躍する[1]。1934年(昭和9年)、体専の先輩である石津光恵とともに第4回国際女子競技大会の日本代表候補に選ばれるが、2人とも自ら参加を辞退した[5]。辞退した理由は不明である[6]1935年(昭和10年)11月20日日本陸上競技連盟ベルリンオリンピック日本代表女子候補20人を発表し、体専では同期の広橋百合子、後輩の三井美代子とともに選出された[7]。校長の二階堂トクヨは候補選手のための「ドイツ部屋」を寄宿舎内に設けて練習に専念できる環境を整えた[8]。林は練習に専念するため、生まれて初めて台湾に帰らず、東京年越しした[9]。林は広橋・三井といつも3人で行動し、台湾なまりの日本語でお茶目な広橋と話している光景はさながら漫才の掛け合いのようであったと読売新聞が報じている[9]1936年(昭和11年)に体専を卒業してオリンピック出場を目指したが、病気のため選考会で落選し、出場権を逃した。選考会の80mハードルの成績は、選手に選ばれた三井と0.1秒差であった[1]

その後、台湾に戻り、教師となった[1]1937年(昭和12年)に1940年東京オリンピックの代表候補に選出されたものの、第二次世界大戦が勃発して大会そのものが消滅し、再度オリンピック出場の機会を逃した[10]

1945年(昭和20年)に結婚し、2男1女の母となった[1]中華民国政府の統治下となった台湾では、戦前の林の記録を中華民国記録として公認し、この記録は長い間破られることがなかった[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 勝場・村山 2013, p. 120.
  2. ^ 李加耀 (2011年10月). 《中華民國建國100年體育專輯——體育人物誌·田徑場上首位女飛人——林月雲》. 行政院體育委員會. p. 111-113頁. ISBN 978-986-02-9318-0 
  3. ^ 勝場・村山 2013, p. 118, 120.
  4. ^ 鈴木實 (1938-01-01). “第九回明治神宮體育大會參加雜觀”. 臺灣婦人界. 
  5. ^ 勝場・村山 2013, pp. 117–118.
  6. ^ 勝場・村山 2013, p. 118.
  7. ^ 勝場・村山 2013, pp. 97, 133–134.
  8. ^ 勝場・村山 2013, p. 134.
  9. ^ a b "代表選手プロフィル 漫才型風景 「二階堂トリオ」"読売新聞1936年1月23日付朝刊、4ページ
  10. ^ “月薪僅36日圓 張星賢成首位奔馳奧運的台灣人”. 中央社. 聯合新聞. (2019年7月27日). https://udn.com/news/story/7005/3953868?from=udn-relatednews_ch2 2019年7月27日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 勝場勝子・村山茂代『二階堂を巣立った娘たち―戦前オリンピック選手編―』不昧堂出版、2013年4月18日、171頁。ISBN 978-4-8293-0498-3 
  • 台灣新民報社 (1937). 台灣人士鑑. 台北市: 台灣新民報社 

関連項目[編集]