松永信夫

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松永 信夫 Football pictogram.svg
名前
カタカナ マツナガ ノブオ
ラテン文字 MATSUNAGA Nobuo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1921年12月6日
出身地 静岡県
選手情報
ポジション FB
代表歴
1942-1955 日本の旗 日本 4 (0)
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松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月6日 - 2007年9月25日)は静岡県出身の元サッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表としてもワールドカップスイス大会予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。

目次

[編集] 略歴

静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学卒業。第二次世界大戦当時の1943年に陸軍に徴兵されフィリピンミンダナオ島に配属された経験を持つ[1]。戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、1951年にインドで第1回アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという[2]

1952年に日本軽金属へ入社。同サッカー部を強豪クラブへと発展させた。また日本代表でも1953年から1956年まで主将を務め、メルボルンオリンピック予選突破に貢献するが、本大会は怪我の影響により不参加となった。

1957年に36歳の時に志太クラブの選手兼任監督として国民体育大会優勝に貢献。この時期に現役を退き、所属する日本軽金属の監督に就任。1971年には日本サッカーリーグ2部昇格に導いた。

また清水市サッカー連盟理事長、静岡県協会常任理事、同副理事等を長きに渡って務め、今日の発展の礎を築いた。2007年9月25日静岡県藤枝市の病院で死去、享年85。

[編集] 所属クラブ

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1954-1955)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1942 0 0 1 0 1 0
1943 0 0 0 0 0 0
1944 0 0 0 0 0 0
1945 0 0 0 0 0 0
1946 0 0 0 0 0 0
1947 0 0 0 0 0 0
1948 0 0 0 0 0 0
1949 0 0 0 0 0 0
1950 0 0 0 0 0 0
1951 0 0 4 0 4 0
1952 0 0 1 0 1 0
1953 0 0 2 0 2 0
1954 3 0 0 0 3 0
1955 1 0 0 0 1 0
通算 4 0 8 0 12 0

[編集] 指導歴

  • 志太クラブ
  • 日本軽金属

[編集] 脚注

  1. ^ 『静岡サッカー70年の歩み』静岡県サッカー協会、1990年。
  2. ^ 憲兵と記述されている資料もある。


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