松本大

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まつもと おおき
松本 大
生誕 1963年12月19日(50歳)
日本の旗 埼玉県浦和市
出身校 東京大学法学部卒業
職業 マネックスグループ
社長最高経営責任者
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松本 大(まつもと おおき、1963年12月19日 - )は、日本実業家マネックスグループ株式会社代表取締役社長CEOマネックス証券株式会社代表取締役社長CEO、株式会社東京証券取引所グループ取締役、株式会社東京証券取引所取締役、株式会社新生銀行取締役。

概要[編集]

東京大学法学部卒業後、ソロモン・ブラザーズを経てゴールドマン・サックスに勤務。債券トレード、デリバティブ取引などに従事したのち、マネックス証券を設立。マネックスの代表取締役や、マネックス・ビーンズ・ホールディングスおよびマネックス・ビーンズ証券の社長などを務めた。現在は、持ち株会社であるマネックスグループとその傘下のマネックス証券にて双方の代表取締役を務めており、あわせて社長および最高経営責任者を兼任する。また、東京証券取引所グループとその子会社の東京証券取引所の取締役も兼任している。なお、新生銀行やオリックス証券の取締役なども務めている。

来歴[編集]

大学卒業[編集]

埼玉県浦和市(現:さいたま市)に生まれる。父は講談社の編集者。担当作家には安部譲二がいた。他に母一人、兄一人。

1974年、小学校5年生のとき4歳上の兄が小児癌で他界。人生観への大きな影響を受ける。

1976年開成中学総代入学。当時の友人に松江泰治(後写真家、第27回木村伊兵衛賞受賞)。松江に頼まれて写真部の部長になる。1979年開成高校へ進学。遊んでばかりの大は成績は常に良くなかったという。大学受験に成功したのは偶然自分の得意な部分が出たからと本人は言う。 1982年東京大学教養学部文科Ⅰ類入学。在学中、高校時代の友人から塾経営に誘われる。実業家の息子であるその友人の塾経営を手伝うことで、サラリーマン以外の生き方があることを知る。

1984年1985年の2度にわたってアメリカを旅する。1985年夏の一人旅で、タフツ大学の学生寮に泊まり込むも言葉がまったく通じず、孤独と屈辱を味わう。この経験から、英語をきちんと喋れるようなるために外資系の会社への就職を決意する。

米国投資銀行へ[編集]

1987年ソロモン・ブラザーズ・アジア証券に入社。10人いた同期生の中には、後に1980年代終わりから1990年代半ばのバブル崩壊後の日本で、最先端金融技術を持つ外資系金融会社が何を行っていたかを記した「メイク★マネー!」の著者末永徹がいる。またクレディ・スイス証券集団申告漏れ事件に巻き込まれた八田隆もその同期生の一人である。

ニューヨークでの研修で優秀な成績をおさめ、同期入社の他の日本人社員が早々と日本に帰国する中、アメリカに残され特別教育を受ける。高校までは理系志望であり、途中心境の変化から文系に転じたが、もともと数学が得意であったことが生きたという。

集団研修の後には、ジョン・メリウェザーのチームに配属される。メリウェザーと後々まで続く交友関係を持ち、また彼を自分の師匠であるとする。1988年ごろ日本へ戻る。同時期の日本の稼ぎ頭には、1990年代を通してソロモン・ブラザーズに多大な利益をもたらし副会長へ上り詰める明神茂がいた。

1990年、ゴールドマン・サックスに転じる。債券金利為替のトレーディングで莫大な利益を上げ、1994年には史上最年少で同社のゼネラル・パートナーとなった。

起業[編集]

1998年秋、ソニーCEOだった出井伸之に会い、ネット証券設立で賛同を得る。翌1999年4月、ソニーとの折半出資でマネックス証券を設立する。設立当時の出資者はJPモルガンリクルートジョージ・ソロス率いるソロス・ファンド・マネジメント、ゴールドマン・サックス、ポール・チューダー・ジョーンズが運営し日本法人CEOを明神茂が務めるチューダー・キャピタル、ジョン・メリウェザー運営のJWMパートナーズ。

マネックス証券は、順調に成長。2000年8月には、会社設立からわずか1年4ヶ月で東証マザーズに上場。松井証券イー・トレード証券等と並び、日本におけるネット証券の嚆矢となり、松本は有力な若手ベンチャー経営者として一躍人々に知られるようになる。目の前にあったゴールドマン・サックス株式公開益を捨てて起業したことも、「10億円を捨てた男」として名声をさらに高めた。2001年5月には米経済誌『フォーチュン誌』で、「次代を担う世界の若手経営者25人」の1人に選ばれた。

出演番組[編集]

ライブドア・ショック(マネックス・ショック)[編集]

2006年1月16日月曜のライブドア堀江貴文への東京地検特捜部による強制捜査開始翌日の1月17日後場、マネックス証券はライブドア株と、その関連会社株の信用取引における担保能力を予告なく掛け目ゼロにした。これにより、ストップ安に張り付き売ることすら出来ない状態のライブドア株所有の個人投資家は、一気に追いつめられる。ライブドア株が売却不可能な状態である以上、追加証拠金を入金するか他の株を売らなければならなくなる。さらに市場では、マネックス証券の決定に追従する証券会社が出るのではないかという懸念から、パニック的な売りが出る。

このことから、ライブドア・ショックの際の日本市場の暴落に、少なくとも追い打ちを掛けたのはマネックス証券であるとの認識が急速に広まった。松本は自身の心境を語るサイトで、ジョン・メリウェザーが松本を訪れ、落ち込んでいるところを励ましてくれたと執筆した[1]。世間では多くのヘッジファンドがこの機に乗じて空売りをかけ、巨額の利益を上げていたことが知られていたので、「この一件は、松本とヘッジファンドが仕組んだものではないのか」といった憶測を呼ぶことになった。事態の重大さや及ぼした影響の大きさから、この事件を「ライブドア・ショック」ではなく「マネックス・ショック」と呼ぶ人も多い。

ただし、これらの信用掛け目に関する決定は制度上は法律に抵触するものではなく、ライブドアのような問題企業の株を担保として預かることはマネックス証券の金融機関としての信用力を低下させるものであるから、この判断は上場企業としては妥当とする見解もある[要出典]。一方、松井証券社長の松井道夫による「証券会社と顧客は信用市場で同じようにリスクを負っているのであり、掛け目ゼロは、そのリスクをすべて顧客に押し付けたことを意味している」との批判、与謝野馨金融・経済財政担当相(当時)による「証券会社は投資家を大切にするべきであり、そうしない会社はいつか投資家に捨てられる」との声明もあり、どちらに理があると考えるかは判断の分かれる点となっている。しかし、マネックス証券は個人投資家を相手にしているのであり、その個人投資家の多くを一気に崖っぷちに追い込むこの行為は、多くの顧客に強い警戒感を与えた。

主な著書[編集]

  • 「『株式投資』改革宣言」(2001年8月)松井道夫との共著
  • 「こうすれば日本はよくなる!」(2002年11月8日)
  • 「トーキョー金融道」(2003年3月)成毛眞藤巻健史との共著
  • 「10億円を捨てた男の仕事術」(2003年5月29日)後、「私の仕事術」と改題し文庫化
  • 「この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言 」(2008年12月)冨山和彦との共著

脚注[編集]

  1. ^ 松本大 (2006年1月18日). “金融列伝 JM その2”. 松本大のつぶやき. 2013年12月22日閲覧。

外部リンク[編集]