松平頼雄
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松平頼雄
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| 時代 | 江戸時代 |
| 生誕 | 寛文8年3月22日(1668年5月3日) |
| 死没 | 享保3年5月29日(1718年6月27日) |
| 改名 | 頼雄、左門 |
| 戒名 | 本地院殿守玄日得大居士 |
| 墓所 | 和歌山市感應寺、田辺市本正寺、 御坊市九品寺、邦安社 |
| 官位 | 従四位侍従、山城守 |
| 氏族 | 紀州徳川家 |
| 父母 | 父:松平頼純、母:本多忠義の娘 |
| 兄弟 | 渡辺恭綱、松平頼路、松平頼廉、 松平頼雄、松平頼致、松平尚峯、 松平頼渡 |
松平 頼雄(まつだいら よりかつ)は、紀州藩支藩の伊予西条藩の世子。後に実父により無実の罪によって廃嫡され、非業の最期を遂げたとされる。
[編集] 生涯
寛文8年(1668年)、西条藩主・松平頼純の四男として江戸で生まれる。母は正室本多忠義の娘(1673年死亡)。その人物像は、孝行心が深く、方正で、非難の余地がない人だったことで史料は全て一致する。
頼雄の最初の不幸は6歳の時、頼純の正室であり、頼雄の生母であった本多忠義の娘(法号「清性院」)が死去したことである。その後、頼純は側室であった太田氏(観樹院)を寵愛し、その間に出来た松平頼致を可愛がるようになる。
元禄12年(1699年)、兄・松平頼路の死によって頼雄は満31歳で嫡子となる。以後、従四位侍従となり翌元禄13年に山城守と名乗り、元禄15年には藩主名代として江戸城に登城している。しかし父・頼純は彼を疎み、元禄14年(1701年)から重臣の強い反対に関わらず彼を廃嫡しようと願っていた。
宝永3年(1706年)、頼純は頼雄の「行跡無宜」という漠然とした理由をあげ老中に届けて、彼を義絶し、渋谷にあった西条藩下屋敷の一間に押し込んだ。すぐ後、「かねての御願いの通り」に愛妾の子・頼致を世嗣にした。更に、宝永6年(1709年)には頼純が重臣の渥美甚五郎勝之[1]を手打ちにし、渥美の妻子、その他の渥美の親族、関係者を大勢処罰した。理由は渥美が頼雄の処罰の件を強諌したことにあった。押し込め処分が解けないまま、正徳元年(1711年)に頼純は死去し、頼致が西条藩主となった。
宝永2年(1705年)に本家の紀州藩主となっていた従兄弟・徳川吉宗が、西条藩下屋敷での座敷牢のような生活を憐れみ、頼雄を別邸に移したが、江戸では何かと気が詰まるだろう[2]と正徳3年(1713年)に紀州に移した。
紀州和歌山では吉宗が何かと心配りを行い、書籍も望みのままに与え、また京都から婦人を迎えたが、頼雄はこれを断り、「父の勘気を蒙った不肖の息子」だとして専ら謹慎した。「父の不興を買うたる者は日の光を受けるは恐れ多し」と庭に出るにも笠を付けるほどであったという。
このような謹慎生活を過ごすにあたり、吉宗は和歌山は藩士も多く、心落ち着き蟄居するには田舎が良いだろうと筆頭家老安藤氏の田辺藩の下秋津(現和歌山県田辺市)の高台に30間四方の邸宅を建て、その年の12月に頼雄をそこに移し住まわせた[3]。頼雄はここで官職を投げ捨て松平左門と名を改めた。
ところが、享保元年(1716年)に本家紀州藩主の吉宗が将軍となって紀州を去り、支藩の西条藩主であった異母弟・頼致が徳川宗直の名前をもって紀州藩主となり、その弟であった頼渡が西条藩を継いだため、頼雄の嗣子としての道は完全に閉ざされた。
享保3年(1718年)に頼雄は謎の死を遂げる。死因は現在でもはっきりとせず、将来の紀州藩のお家騒動を懸念した[4]宗直が御坊市の九品寺におびき出して暗殺したとも、紀州藩主の代替わりを数年後に知った頼雄が、「弟殿の御代となっては養ひ受くべきは思いもよらず」と宗直が差し入れを送っていたことを知り反発し、病気を訴え、絶食し、ついに餓死したとも言われる(九品寺には山城守と言い伝えられている無銘の大名塚があることから暗殺説が有力である)。葬式は田辺の本正寺で三つの藩の目付の前で行われた。
戒名「本地院殿守玄日得大居士」。墓所は和歌山の感應寺、位牌堂は田辺の本正寺、供養塚は御坊の九品寺。
[編集] 死後の扱い
安永5年(1776年)に宗直の子・徳川治貞が和歌山に入部したが、その年から毎年公然と頼雄の墓を訪問した。その後、頼雄の嫡子としての地位が回復され、文化3年(1806年)にその「冤魂」を慰めるための和歌山の邦安社が創建された。
なお、大河ドラマ八代将軍吉宗での頼雄は「隠れキリシタンとして廃嫡・暗殺された」と史実と全く異なる設定にされた。

