松元町
| 松元町 | |
|---|---|
松元平野岡体育館 |
|
| 廃止日 | 2004年11月1日 |
| 廃止理由 | 編入合併 喜入町、吉田町、桜島町、松元町、郡山町 → 鹿児島市 |
| 現在の自治体 | 鹿児島市 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 | |
| 地方 | 九州地方 |
| 都道府県 | 鹿児島県 |
| 郡 | 日置郡 |
| 団体コード | 46364-7 |
| 面積 | 51.05km². |
| 総人口 | 12,698人 (2004年9月1日) |
| 隣接自治体 | 鹿児島市・伊集院町・吹上町・日吉町 |
| 町の木 | イヌマキ |
| 町の花 | 菊 |
| 松元町役場 | |
| 所在地 | 〒899-2792 鹿児島県日置郡松元町上谷口2883番地 |
| 座標 | 北緯31度36分15.6秒 東経130度26分9.5秒 |
| ウィキプロジェクト | |
松元町(まつもとちょう)は、鹿児島県日置郡にあった町。1889年の町村制施行に伴い上伊集院村(かみいじゅういんむら)として発足し、1960年に改名及び町制施行。2004年11月1日に鹿児島市に編入され自治体としては消滅した。
2004年9月1日現在で、人口12,698人、世帯数4,629世帯、面積は51.05Km2であり、2000年に行われた国勢調査において松元町は1995年の国勢調査時点からの人口増加率が9.3パーセント増加となり、鹿児島県内では最も人口増加率が高くなった[1] 。
また、「卓球の町」をスローガンに町おこしを行い、松元平野岡体育館では全国大会なども広く行われていた。
目次 |
[編集] 地理
松元町の中心部は鹿児島市中心部より西へ約10Kmの場所にあり、薩摩半島の中部の南北11Km、東西7.4Kmの範囲に広がっていた。鹿児島湾と東シナ海への両斜面を持つ分水嶺地帯にあり、鹿児島湾方面に永田川が流れ、東シナ海方面に神之川水系上谷口川、石谷川、福山川などが流れている。全体が約200m級のシラス台地と浸食谷による渓谷からなっており、集落は河川の沖積低地と台地の縁辺部に立地している[2]。
最も高い山は大字春山にある八の久保で391.7mである[3]
[編集] 大字
1889年の町村制施行時にそれまでの江戸期の藩政村の区域は大字となり上谷口、福山、石谷、春山、入佐、直木の5大字から構成された。その後2003年に松陽台(旧称:松元ニュータウン)の区域より大字松陽台が設置され、翌年の2004年2月には四元、平田の2大字が直木より分割された。2004年の鹿児島市編入時には8大字が存在していた。
鹿児島市編入時に従来の大字は町に置き換えられ、これらの大字は現在の鹿児島市上谷口町、石谷町、福山町、松陽台町、春山町、四元町、平田町、直木町、入佐町にあたる。
[編集] 隣接していた市町村
[編集] 自治体名の由来
旧上伊集院村役場が大字上谷口字松元にあり、町制施行前の1954年(昭和29年)に鹿児島本線に設置された薩摩松元駅の松元に一致させたことに由来している[2]。
[編集] 歴史
[編集] 原始期
先土器時代の遺跡及び遺物は見つかっていないが、縄文、弥生期のものは直木、入佐、春山を中心に発見されており、縄文期の遺跡は多くが台地や山地に所在している。近年では南九州西回り自動車道建設時に福山にて縄文期のものとみられるフキカキ遺跡が発見されている。弥生期のものとしては直木の東昌寺遺跡では北九州の遠賀式土器が多く出土している。この一帯も「記紀」で見られる阿多隼人の居住地であったと考えられている。古墳時代のものとしては入佐にある大鳥神社跡から土師器などが出土している[2]。
[編集] 古代期
松元町域にあたる部分は薩摩国日置郡に属しており、朝廷は大隅及び薩摩にて班田を実施しているが町域にあたる部分には山林沼沢が多かった為、その痕跡は見当たらない。平安初期の日置郡は3郷からなり、そのうちの納薩は「いりさ」と読み、現在の入佐に比定するという説がある。
また、律令時代には当地域は国衙領として日置郡の郡司の支配下にあったはずであるが、建久8年の「薩摩国図田帳」によると満家院、伊集院、市来院及び日置荘から成立しており、伊集院の領域に属していた。
上谷口の内田にある上坊観音堂跡石塔群は平安末期にこの地の名主であった紀平二元信の五輪塔であるといわれている。この紀平二元信は紀貫之の子孫であるとされている伊集院郡司系の一族のものであると考えられる。「万得」という地名があり、これは大隅正八幡宮と深い関係にある名田を意味しており、その荘園に類するものと考えられている。
[編集] 中世期
鎌倉時代頃は伊集院の一部に属していたが、伊集院郡司を世襲していた紀氏は血統が絶断し、13世紀末期に島津久兼が伊集院氏を名乗り伊集院の城山に移った。
その後島津忠国が一宇治城を攻撃し、伊集院氏は滅亡した。その後島津勝久は伊集院を島津忠良に領有させたが、1526年(大永6年)に島津忠良が加治木征伐を行っている留守中に島津実久が伊集院を占領し、肥後盛家に谷口城を守備させていた。また、実久が当地を通り伊集院に行く際に道中に座った巨大石が上伊集院駅の東方にある饅頭石であるとされている。
[編集] 近世期
「天保郷帳」に見える松元町の区域にあたるの村は、日置郡伊集院郷(外城)の27村のうち5村があり、各村の村高は石谷村1,049石余、福山村933石余、直木村862石余、入佐村476石余、春山村253石余であった。
また、上谷口の地名がこの頃には見えないが後に谷口村が上谷口村と下谷口村(現在の日置市伊集院町下谷口)に分村し、この頃より上谷口村が見えるようになったと「薩藩政要録」に記されている。近世の伊集院郷は藩の直轄地として地頭による支配を受けていた。
江戸中期以降は台地や大山野の開墾が積極的に進められた。寛永年間以降に地頭制が従来の居地頭から掛持地頭に改められ、町田家は藩内各地の地頭を任命されたり、藩の家老としてその要職にあった。町田家は一所持であり1,742石余を領有していた。
町田家は鹿児島城下に移住した後、石谷村の政治の中心は御仮屋となり、周辺には有馬氏などの郷士集落が多かった。万延元年に町田助太郎久成(町田久成)の要請で統治を委託された有馬新七は鹿児島城下を離れ、石谷を治めることとなった。有馬新七は当地に刑法を定めたり、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。
[編集] 近現代
江戸末期より茶、稲、野菜などの園芸作物などを中心に栽培されていたが、1913年(大正2年)に鹿児島本線が開通し、饅頭石駅(現在の上伊集院駅)が設置され、鹿児島市の近郊農村となり植林、茶、桑、タバコなどの栽培が盛んに行われるようになった。明治4年には直木施業森林組合が発足し、日置郡が造林用の苗木供給のために上伊集院分場を設置した。その後鹿児島市の近郊に位置していることによって兼業農家が増加し、8割を占めるようになった[3]。
1954年(昭和29年)に薩摩松元駅が中心部に設置され、平成に入ると駅周辺を中心に住宅団地やニュータウン(ガーデンヒルズ松陽台など)が建設されたり、石谷には南九州西回り自動車道が開通するなど交通網や住宅環境の整備が進んだが、急激な開発により一部の地域ではスプロール化している地域もある。
2004年(平成16年)11月1日に鹿児島市へ編入され、自治体としては消滅した。
[編集] 沿革
[編集] 行政区域の変遷
- 1889年4月1日 - 市制町村制施行に伴い、江戸期の藩政村である上谷口村、福山村、石谷村、春山村、直木村、入佐村の区域より上伊集院村発足。
- 1960年4月1日 - 上伊集院村が町制施行及び即日改名し松元町となる。
- 2004年11月1日 - 鹿児島市に編入され消滅。
[編集] 文化財
| 種別 | 名称 | 所在地 |
|---|---|---|
| 県有形民俗 | 入佐の田の神 | 入佐 |
| 有形民俗 | 仙寿院の跡 | |
| 記念物 | 岩屋観音 | 春山 |
| 有形民俗 | 森園の田の神 | |
| 記念物 | 町田家の墓 | 石谷 |
| 記念物 | 石坂 | |
| 有形民俗 | 上坊石塔群 | 上谷口 |
[編集] 行政
[編集] 歴代村長・町長
町村制施行以降の上伊集院村・松元町長を記載する。表記は『松元町閉町記念誌 松元の歴史』29・30頁及び『松元町郷土誌』の巻頭の歴代村(町)長一覧に基づく。
| 代 | 氏名 | 就任期間 |
|---|---|---|
| 上伊集院村長(1889年 - 1960年) | ||
| 初代村長 | 遠矢友衛 | 1889年6月8日 - 1897年6月7日 |
| 第2代村長 | 町田実央 | 1897年6月8日 - 1901年6月7日 |
| 第3代村長 | 森幸左衛門 | 1901年6月8日 - 1905年6月7日 |
| 第4代村長 | 四元矢之助 | 1905年6月8日 - 1917年6月7日 |
| 第5代村長 | 森山友二 | 1917年6月8日 - 1921年6月7日 |
| 第6代村長 | 倉内藤一郎 | 1921年6月8日 - 1929年6月7日 |
| 第7代村長 | 吉永長之進 | 1929年6月8日 - 1930年3月9日 |
| 第8代村長 | 石原源十郎 | 1930年4月1日 - 1934年3月31日 |
| 第9代村長 | 上竹原善次郎 | 1934年4月1日 - 1935年11月25日 |
| 第10代村長 | 篠原喜角 | 1935年12月10日 - 1943年12月9日 |
| 第11代村長 | 上竹原善次郎 | 1943年12月10日 - 1946年12月10日 |
| 第12代村長 | 末永善助 | 1947年4月5日 - 1955年4月29日 |
| 第13代村長 | 東純男 | 1955年4月30日 - 1960年3月31日 |
| 松元町長(1960年 - 2004年) | ||
| 初代町長 | 東純男 | 1960年4月1日 - 1970年4月30日 |
| 第2代町長 | 奥武雄 | 1970年5月1日 - 1972年4月30日 |
| 第3代町長 | 畠中市太郎 | 1972年5月1日 - 1979年3月6日 |
| 第4代町長 | 九万田萬喜良 | 1979年3月7日 - 1983年7月7日 |
| 第5代町長 | 四元泰盛 | 1983年7月8日 - 2004年10月31日 |
[編集] 町章
松元町のマツを図案し、円は町民の融和、団結を表し、右に伸びる翼のツは調整の発展伸長を鳥で象徴している[4]
[編集] 人口
以下の人口遷移表は『松元町閉町記念誌』27頁の記述に基づく。
| 1920年 | 1930年 | 1940年 | 1950年 | 1960年 | 1970年 | 1980年 | 1990年 | 2000年 | 2004年 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 人口 | 6,948 | 7,131 | 7,114 | 9,736 | 8,442 | 7,241 | 8,616 | 9,803 | 12,065 | 12,734 |
| 世帯数 | 1,718 | 1,631 | 1,556 | 2,003 | 2,001 | 2,053 | 2,717 | 3,236 | 4,234 | 4,642 |
[編集] 地域
[編集] 教育
[編集] 高等学校
[編集] 中学校
[編集] 小学校
太字の学校は標準服の着用が義務付けられており、全学校で制服が指定されている。
[編集] 幼稚園・保育園
- 公立
- 松元町立松元幼稚園
- 私立
- 松元中央幼稚園
- 仁田尾保育園
[編集] 郵便局
- 上伊集院郵便局
- 松元駅前郵便局
[編集] 特産物
- 松元茶