松下之綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
松下 之綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文6年(1537年
死没 慶長3年2月30日1598年4月5日
別名 左助・兵部(幼名)、加兵衛(通称)
諡号 長参
戒名 綱元院殿天翁長珊大居士、正寿院殿故石見守真誉長参大居士
官位 従五位下石見
主君 今川義元今川氏真徳川家康武田勝頼豊臣秀吉
遠江久野藩主(知行:1万6,000石)
氏族 松下氏
父母 父:松下長則
兄弟 松下之綱松下則綱松下継綱
松下連昌の娘
松下暁綱(長男)、松下重綱(次男)、
松下方綱(三男、一時期山内康豊養子)、
おりん(柳生宗矩正室)、娘(松下長重室)、
娘(中村正吉室)、娘(夏目吉信室)
木下藤吉郎と手合わせをする松下加兵衛
『新撰太閤記』 歌川豊宣

松下 之綱(まつした ゆきつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣秀吉織田氏の家臣になる以前に仕えた人物で、之綱は秀吉の恩人であり武芸・学問・兵法などを教えたとみられる。

経歴[編集]

松下氏は元来は近江国守護である近江源氏六角氏の一族で、近江八幡市の円山城の城主、西條氏の庶流である。鎌倉時代末期に三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区)に移住し、これにより苗字を松下と名乗ったとされる。

天文6年(1537年)、之綱は兵法者で槍術の達人・松下長則の子として、三河国にて生まれる。

之綱は遠江国頭陀寺城主(現在の浜松市南区)として今川義元に仕えた。なお、この頃、松下氏に木下藤吉郎と名乗る以前の豊臣秀吉が仕えていたことがある(年齢から考えて、秀吉が仕えたのは長則であると思われるが、通説・各種歴史書では之綱となっている。ちなみに、冨永公文は、秀吉と松下之綱は同年であるので、秀吉は長則に仕えたと見るべきとしている)。

なお、頭陀寺(高野山真言宗)は遠江川匂荘(かわわのしょう)の領家であるので、寺侍としての松下氏の位置づけは注目してもよいだろう。松下氏は、引馬城主・飯尾氏を寄親とする寄子で、飯尾連龍の家臣であるが、連龍が今川氏を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた際、永禄6年(1563年)に今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上したと記録にある(遠州忩劇)。通称「松下屋敷」の地下に眠る頭陀寺城跡は平成13年(2001年)10月に発掘調査が行われ、炎上跡が確認された。

やがて今川氏が滅亡すると、徳川家康の家臣として仕えた。しかし、天正2年(1574年)第1次高天神城の戦いでは之綱は籠城して、のち武田氏に降伏した。すると、長浜城主になっていた秀吉は、之綱を家臣として召し出したとみられる(ただし、秀吉が召し出した時について、「松下文書」によって、天正11年(1583年)10月6日とされてきたのが通説である)。天正3年(1575年)の長篠の戦いの際には秀吉の前備として兵100を預けられた(「山内一豊公紀」)。

天正10年(1582年)の本能寺の変から天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いを経て、同年丹波国河内国伊勢国などの内に秀吉から3,000石の所領を与えられた。天正15年(1587年)3月には、秀吉の九州遠征にも前備の直属部隊として兵150を率いて従軍(『久野保心氏所蔵文書』(名古屋市立鶴舞中央図書館蔵)、秀吉が4月9日付けでその前備17名に宛てた朱印状で、「松下加兵衛の事、先年(秀吉が)御牢人の時、御忠節の仁(人)に候」と述べ、松下加兵衛との旧縁に言及、格別の計らいを指示している。(『松下文書』)この年、従五位下・石見守に叙位・任官され、同年に丹波3,000石を加増され6,000石となった。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、10月3日に遠江で1万石追加され、遠江久野藩(袋井市久能)1万6,000石の大名としての所領を、豊臣秀吉から与えられた。この時の居城である久野城(遠江)は城の規模は小さいが、瓦の格式が高く立派な作りであったと発掘調査の結果明らかになっている。

慶長3年(1598年)2月晦日に死去。享年62。家督は次男の重綱が継いだ。長男・暁綱が継がなかった理由はよくわかっていない。また、娘のおりん柳生宗矩に嫁いだ。

参考資料[編集]

  • 冨永公文著『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』 
  • 神谷昌志著『見る読む浜松歴史年表』