東舞鶴

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ひがしまいづるし
東舞鶴市
東舞鶴市章
廃止日 1943年5月27日
廃止理由 新設合併
舞鶴市 (旧)、東舞鶴市 → 舞鶴市
現在の自治体 舞鶴市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 143.1km2.
総人口 49,810
(1940年国勢調査
隣接自治体 舞鶴市 (旧)
中上林村奥上林村
福井県大飯郡内浦村青郷村
東舞鶴市役所
所在地 京都府東舞鶴市
座標 北緯35度28分29.3秒 東経135度23分9.6秒 / 北緯35.474806度 東経135.386000度 / 35.474806; 135.386000 (東舞鶴市)
特記事項 大浦半島を含む人口は56,154
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舞鶴市三条通り。八島通りと並び舞鶴市の繁華街であった

東舞鶴(ひがしまいづる)とは、舞鶴市の東半分。1938年8月1日市制を施行し、1943年5月27日(旧)舞鶴市と合併するまでの東舞鶴市に相当する。

概要[編集]

東舞鶴は、一般に、与保呂、八島、北吸などの東半分の地域を指し、舞鶴市役所が置かれている。また、城下町として栄えた西舞鶴と違い、1901年舞鶴鎮守府が設置され、軍港として発展した。その際、現在の東舞鶴駅前にあたる浜地区は、京都市に倣って碁盤目の道路網を形成している。

産業面では舞鶴港があり、舞鶴の総工業出荷額の約20%を占めるといわれるジャパン マリンユナイテッド、舞鶴・平工業団地には日本板硝子などの企業も多く立地している。また、旧日本海軍が整備した与保呂川水源は今も東舞鶴の水源地として多くの市民の飲み水となっている。

東舞鶴市[編集]

東舞鶴市は、1938年(昭和13年)8月1日新舞鶴町中舞鶴町志楽村倉梯村与保呂村が合併して市制を施行し、1942年8月1日には東大浦村西大浦村朝来村を編入した。だが、太平洋戦争の拡大により東西舞鶴に軍需施設が点在するようになり、「軍都の一括管理」の名目のもと、海軍によって合併を要請され、1943年5月27日には(旧)舞鶴市(西舞鶴)と対等合併し、新たに舞鶴市が設置されて消滅した。

しかし、東舞鶴は明治時代からの軍港から急速に発展した都市にあるのに対して、西舞鶴は戦国時代からの城下町から発展した都市であったため、住民感情に大きな相違があった。そのため、1950年(昭和25年)には住民投票で舞鶴市を再び東西に分割する案が成立するが、京都府議会によって否決されて終った。

そのわだかまりは今でも残っているとされ、現在においても市長選挙や府議会議員選挙などにおいて、東と西の対立は否めないものがあるといわれる[要出典]

市長[編集]

東舞鶴の商業[編集]

東西舞鶴市でも、東舞鶴地区の方が人口が多く、比較的商業施設が充実していたが、近年は西舞鶴でも大型商業施設が立地するなどしている。

大型商業施設[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 内閣「立花一京都府舞鶴市長ニ任スルノ件」昭和18年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-021-00・任B03464100

関連項目[編集]