東海村JCO臨界事故

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東海村JCO臨界事故
Map, location of Tokaimura nuclear accident.tif
事故の場所
場所 茨城県那珂郡東海村
座標 北緯36度28分47.00秒 東経140度33分13.24秒 / 北緯36.4797222度 東経140.5536778度 / 36.4797222; 140.5536778座標: 北緯36度28分47.00秒 東経140度33分13.24秒 / 北緯36.4797222度 東経140.5536778度 / 36.4797222; 140.5536778
日付 1999年平成11年)9月30日
概要 原子力事故 臨界事故
死亡者 2名
負傷者 1名
他の被害者 667名(被曝者)

東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。

概要[編集]

1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他、667名の被曝者を出した。

国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故。

事故の推移[編集]

9月30日10時35分、転換試験棟で警報。11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁に入る。そして11時52分に被曝した作業員3名を搬送するため救急車が出動した。東海村から住民に対する屋内退避の呼びかけの広報が始まったのは、12時30分からである[1]。なお、この広報に関しては東海村の村上達也村長(当時)が、国・県の対応を待たず独断で行った[2]

12時40分頃、内閣総理大臣小渕恵三(当時)に事故の第一報が報告される[1][3]。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避[4]および換気装置停止の呼びかけ、現場周辺の県道国道常磐自動車道の閉鎖、JR東日本常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。

JCO職員は事故当初、誰も止める作業をしなかったが、「あなた達でやらなければ強制作業命令を出した後に、結果的にする事になる」[5]と国からの代理人に促された結果、「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない」と同社職員らが数回に分けて内部に突入して冷却水を抜く、ホウ酸を投入するなどの作業を行い、連鎖反応を止めることに成功して事故は終息した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の6時30分頃だった[6]

事故原因[編集]

本事故の原因は、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料の製造工程[7]における、JCOのずさんな作業工程管理にあった。

JCOは燃料加工の工程において、国の管理規定に沿った正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用していた。一例をあげると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用するという手順だったが、裏マニュアルではステンレスバケツを用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等の放射線が大量に放射された。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と語った。

事故被曝者[編集]

この事故では3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント[8]以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員らはヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下「放医研」)へ搬送され、うち2名は造血細胞の移植の関係から東京大学医学部附属病院(東大病院)に転院し集中治療がなされた。3名の治療経過や本事故において被曝した者の経過などは、それぞれ以下の通り。

  • 16-20グレイ・イクイバレント(推定16-20シーベルト以上[9])の被曝をした作業員A(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により、新しい細胞が生成できない状態となる。まず白血球が生成されなくなったため実妹から提供された造血幹細胞移植が行われた。移植術自体は成功し移植直後は白血球の増加が見られたが、時間経過と共に新細胞の染色体にも異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。59日後の11月27日、心停止。救命処置により蘇生したものの、心肺停止によるダメージから各臓器の機能が著しく低下、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の12月21日、多臓器不全により死亡した。
  • 6.0-10グレイ・イクイバレント(推定6-10シーベルト[9])の被曝をした作業員B(当時40歳)もAと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血細胞の移植が一定の成果をあげたことにより一時は警察への証言を行うまでに回復した。しかし放射線障害により徐々に容態が悪化、さらにMRSA感染による肺炎を併発し[10]、事故から211日後の2000年4月27日、多臓器不全により死亡した。
  • 推定1-4.5グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員C(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受け回復。12月20日に放医研を退院した。
  • 臨界状態を収束させるための作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆け付けた救急隊員3人が2次被曝を受けた。被曝被害者の受けた最高被曝線量は最大120ミリシーベルト、50ミリシーベルトを超えたものは6名だった[9]。さらに周辺住民207名への中性子線等の被曝も起こった。最大は25ミリシーベルトで、年間被曝線量限度の1ミリシーベルト以上の被曝者は112名だった[9]。被曝者総数は、事故調査委員会(委員長:吉川弘之日本学術会議会長)で認定されただけで667名(2000年4月)であった。

治療に関する特記事項[編集]

  • 急性被曝による半数致死量(LD50 :"Lethal Dose, 50%"の略)は4.0Sv(亜致死線量)で2-6週間で被曝者の50%に死をもたらし、6.0Sv(致死線量)では2週間以内に90%が死亡するとされており[11]、特に作業員Aに対しては当初から回復は絶望視されていた[10]
  • 医学的には、近代医学による被曝者治療の貴重な臨床例となった。特に国内ではこのような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、治療に当たった医師団も毎日のように発生する新しい症状に試行錯誤をしながらの治療だったと証言している[5]

日本原子力史上初の刑事責任[編集]

この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われた。事故から約1年後の2000年10月16日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地検が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長の6名を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと所長を原子炉等規制法違反及び労働安全衛生法違反罪でそれぞれ起訴した。 2003年3月3日水戸地裁は被告企業としてのJCOに罰金刑、被告人6名に対し執行猶予付きの有罪判決を下した[12]

なお、被害者でもある作業員Cは製造グループ副長としての現場責任を問われ有罪判決を受けた[12]

事故の影響[編集]

  • この事故の結果、JCOは加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。
  • この事故を受けて、保安規定の遵守状況の国による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度(原子力施設安全情報申告制度、いわゆる内部告発制度)が導入された。
  • 当時の陸上自衛隊は災害派遣要請に基づき、第101化学防護隊(現中央特殊武器防護隊)を派遣するなどの対処を行った。その後、同年12月に原子力災害対策特別措置法が制定されたことを受け自衛隊法を改正、自衛隊の行動区分において「災害派遣」とは自然災害による派遣と定義づけ、原子力事故に起因する災害派遣は新たに「原子力災害派遣」を設け(自衛隊法第83条の3)、別個のものとして対処することとなった。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 文部科学省JCOにおける臨界事故の経緯について
  2. ^ 『みえない恐怖をこえて―村上達也東海村長の証言(シリーズ臨界事故のムラから)』(那珂書房 2002年) ISBN 9784931442313
  3. ^ 報告後、小渕首相がテレビで周辺住民に対し「外出しないように」と呼びかけを行った。なお、この事故を受け小渕内閣は翌10月1日に予定されていた内閣改造を延期、10月5日に改造を行った。
  4. ^ 10km圏内の屋内退避要請の発表は20時30分頃、その要請が解除されたのは翌10月1日の16時30分頃だった。
  5. ^ a b NHKスペシャル『被曝治療83日間の記録〜東海村臨界事故〜』(2001年放送)
  6. ^ 文部科学省・一時滞在者及び防災業務関係者等の線量評価の結果について
  7. ^ 六フッ化ウラン(UF6)を二酸化ウラン(UO2)粉末に再転換する中間工程。
  8. ^ 「生物学的ガンマ線相当線量」を示す単位で、短時間での高線量被曝において用いられる。緊急被ばく医療研修のホームページ(REMネット)・用語集「グレイ・イクイバレント(GyEq)
  9. ^ a b c d 原子力教育を考える会「よくわかる原子力」ホームページ「東海村JCO 臨界事故
  10. ^ a b 週刊現代・2000年5月06日号55ページ
  11. ^ 独立行政法人 国立病院機構災害医療センター・人の急性被ばくによる症状
  12. ^ a b 水戸地方裁判所 刑事部 平成15年03月03日 平成12(わ)865  核原料物質,核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律違反等被告事件 判決全文 (PDF)
  13. ^ 中止告知 水戸芸術館ホームページ
  14. ^ 風評被害による損害賠償詳細 茨城県議会議員・井手義弘公式WEB
  15. ^ 『中日新聞』1999年10月1日付 1,38,39面

参考書籍[編集]

  • 『JCO臨界事故と日本の原子力行政―安全政策への提言』JCO臨界事故総合評価会議(七つ森書館)
  • 『JCO臨界事故その全貌の解明―事実・要因・対応』日本原子力学会JCO事故調査委員会(東海大学出版会)
  • 『恐怖の臨界事故』原子力資料情報室岩波書店
  • 『被曝治療83日間の記録 東海村臨界事故』(岩波書店)
  • 『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』(上記の改題文庫版 新潮文庫
  • 『検証ドキュメント臨界19時間の教訓』核事故緊急取材班+岸本康。2000年1月1日初版(小学館)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]