東洋の魔女
東洋の魔女(とうようのまじょ)は、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネーム。
1964年東京五輪では同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得した。ソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%[1](ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、スポーツ中継としては歴代最高となっている。
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[編集] 概要
[編集] 1961年欧州遠征
1961年の欧州遠征で日紡貝塚は22連勝を記録する。ソ連からの外電も彼女たちの偉業を認め日紡貝塚に東洋の台風、東洋のまほうつかいの異名をつけて世界的なヒロインとして伝えた。出場メンバーは以下の9名である。
[編集] 1962年世界選手権
1962年の世界選手権はすでに東洋の魔女として恐れられていた日本が宿敵・ソ連にどこまで迫ることができるかが最大の焦点となっていた。柔道の受け身に似た回転レシーブ[1][2]、手元で微妙に揺れる変化球サーブを駆使して最終戦のソ連との全勝同士の対決はセットカウント3-1で勝利し優勝した。日本の団体球技が世界大会で優勝するのはこれが初めてであったため、社会的なニュースとして日本で大きく取り上げられた。出場メンバーは以下の12名である。
[編集] 1964年東京五輪
1962年世界選手権後、優勝の褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は引退を表明していた[1]。しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定し、オリンピックまで続けてほしいという周囲の声が高まったことを受け、監督と選手達はオリンピックまで続けることを決意した[3]。この後のオリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくったという[4]。
1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。試合を中継した鈴木文弥アナが「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった[1]。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。出場選手は以下の12名である。
[編集] エピソード
- 1966年8月6日、駒沢屋内球技場で開かれた世界選手権兼アジア大会代表選考会で、ヤシカに敗れ、6人制バレーボールの試合としての公式戦連勝記録は258試合でストップした(1959年11月に全日本総合選手権大会の準々優勝で明治生命に勝って以来、2458日目のことだった)[5]。
- 東京オリンピックの金メダル獲得に起因して日本では空前のバレーボール・ブームが起こり、後にテレビの『サインはV』、漫画の『アタックNo.1』などの作品が生まれた。
- 東京オリンピックでの決勝戦の解説をしていたアメリカのテレビ局コメンテーターが、日本勢の攻撃の度に「オリエンタル・ウィッチ」(The Oriental Witches, 直訳:東洋の魔女)の呼び名を連発した事から、このニックネームが広く知られるようになった。
- 1970年代になって、『火曜ワイドスペシャル』(フジテレビ)内で放送された「オールスターバレーボール大会」の冒頭で、彼女達が芸能人選抜チームとエキシビジョンマッチを何回か行った事が有った。
- 1970年代(1974年~1978年にかけて)のバレーボール全日本女子は、「新東洋の魔女」と呼ばれた。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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