実録シリーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東映実録路線から転送)

実録シリーズ(じつろく-)は、映画オリジナルビデオの一種で、ヤクザ映画の中でも実話を基に製作されたものをいう。

概要[編集]

1960年代映画に於いてそれ以前までは主流であった時代劇の廃退により、東映任侠映画を製作し、成功を収めた。それらは主に鶴田浩二高倉健が主演であり、「人生劇場」、「日本侠客伝シリーズ」、「昭和残侠伝シリーズ」などの代表作は、任侠をテーマにし正義が悪を倒すという、時代劇のころから受け継がれた単純なストーリーであった[1][2]。しかし1973年に公開された菅原文太主演・深作欣二監督の『仁義なき戦い』はそれまでとは違い、実際に起こった広島での抗争事件の当事者の一人が書いた手記をベースとしたノンフィクションを原作としており[3]、大ヒットした[4]。当時の東映のヤクザ映画は実録映画実録路線と呼ばれた[5][6][7][8][9][10][11]。2020年には東映自ら、実録路線&アニメは東映のお家芸と発表している[12]

「実録」という呼称[編集]

こうした「実録」という呼称は、イタリアマフィアの実態を克明に描写した1972年の『バラキ』あたりから用いられるようになった、と書かれた文献もあるが[13]、『バラキ』と『仁義なき戦い』第一作の公開は1ヵ月しか違わず、『キネマ旬報』1972年11月下旬号の『バラキ』の特集でも「実録」という言葉は使われていない。1972年7月に『ゴッドファーザー』が日本で公開されて間もなく、東映岡田茂社長が「『ゴッドファーザー』は、東映任侠映画を大掛かりにしただけの作品。事実を避けて通らず、克明に描いたところに大衆を引きつける魅力がある。便乗企画といわれればそれまでだが、東映でも日本版マフィア映画を作るべきだ」と指示し、"和製ゴッドファーザー"として『仁義なき戦い』の製作を決定した[1][14][15][16][17][18]。これが日本の「実録ヤクザ映画」の実質的なスタートであるが[1][15][16]、『キネマ旬報』1972年9月下旬号の「世界の映画作家」という記事で岡田は「時代の動きに応じて変わっていくが1972年の今求められているのは"実話性"の強いものではないか。『ゴッドファーザ』にしてもしかり。私は"実態映画"という名で呼ぶが、こういうものはスターシステムとは別の魅力が発揮される。東映でもこうした"実態映画"を大作の構えで作っていきたい。小さな作品にしたのでは魅力はない。同じやくざものでも『博奕打ち外伝』のような作品はスターを並べた伝統的なものとして今後もつくり、一方で『仁義なき戦い』のようなものを大がかりに撮って行きたい。政界を題材にするのもいい、警察内部の実態でもいい、週刊誌で話題になるバーの内部も面白いだろう。これなどは新しい形の"女性映画"になりうると思う」などと話し、この時点で、この後展開される「東映実録路線」のコンセプトを既に着想しており、さらに『キネマ旬報』1972年10月上旬号のインタビューでは「私は日本のアクション映画には限界があると思う。実際のギャングがいないのだから、現実と虚構の接点が薄いわけだ。欧米のそれをマネても当たらない。土壌が違うんで観客がバカにしちゃってる。日本のアクションは日本の中にあるものから考えなければならない。私もいろいろやったがやはり当たらなかった。欧米と日本ではヤクザの実態が違い過ぎるんだ」などと話しており[19]、「任侠映画」から「実録映画」への転換を構想していた[20][21][22]。1972年春の看板スター・藤純子の引退で、「任侠映画」に翳りが見え[11][14]、路線転換に悩んでいた岡田が暗中模索の中で閃いたのが「実録路線」「実録シリーズ」であった[7][14][23][24][25][26]。このインタビューでは岡田は"実録"という言葉は使っていないが、1972年9月1日に東映が笠原和夫に『仁義なき戦い』の脚本執筆を依頼したとき[27][28]、笠原は「"実録"という言葉を初めて聞いた。それで会社はいよいよロッセリーニをやるのかと思った」と話しており[29]、『ゴッドファーザー』が日本で公開された1972年7月から間もない同年夏の時点で、東映の関係者は"実録"という言葉を使っていたと考えられる。用語として定着するのは1972年11月21日に東映本社で『仁義なき戦い』の製作発表が行われ[30]、"実録映画路線"の第一弾として発表してからで[13][28][30][31][32]、「従来の任侠映画的なヤクザを美化したものでなく、実録の持つ迫力をドキュメンタリー・タッチのドラマとして、ヤクザの裏面を衝撃的に描く」と説明した[30]。1972年の暮れから『仁義なき戦い』第一作の公開が近づくにつれ、何枚もの宣伝ポスター、アド(広告)などを製作して、新聞に掲載したり、劇場内に次回作告知として貼り付けたが[33][34]、このポスターなどに、"実録シリーズ第一弾"、"日本の実録超大作"などと惹句(キャッチコピー)を入れて盛んに煽った[33][35][36][37]。実録ものは、覗き見趣味的な効果もあり、異様なパワーを持って観客に新鮮な感覚を与えた[38]

実録路線[編集]

『仁義なき戦い』の大ヒットにより、岡田社長が「実録路線」第二弾として、安藤昇主演映画に『やくざと抗争 実録安藤組』というタイトルを付け[23][24]、これもヒット[23][24][39]。ヤクザ映画のタイトルに「実録」という呼称が入ったのはこれが最初。映画のタイトルに「実録」という言葉が入った映画は、戦前には多かったが[40]、戦後はあまり使われていなかった[40]。岡田は強力な抵抗を押し切って[41]、これらを「実録路線」としてシリーズ化し、「任侠映画」からの転換を図り[17][24][25][41][42][43][44][45][46]、以降も実録ヤクザ映画が量産され[46][47]、「実録」という言葉も一気に普及する[13][35][48][49][50][51]。『宝石』1983年1月号の「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田」という記事で、「映画史に一時期を画した東映の任侠映画もすでに下降線を迎え、それを象徴するかのように任侠映画の女王・藤純子が1972年3月公開の『関東緋桜一家』を最後に引退、スクリーンから消えていった。それは任侠路線の終焉ともいうべき出来事であった。また社内的には最盛期に肥大化した製作現場と製作要員の縮小という大きな問題もあって、好調を続けてきた東映が初めて直面する苦難のときでもあった。このとき任侠路線につぐ"実録路線"を考え出したのは新社長の岡田茂である。岡田は『日本映画界の最大の危機は1971年から1974年の三年間で、全部ダメになると思ったよ。それから10年間は各社とも体質改善に励んでどん底から這い上がり、それぞれに生きる道を身に着けた。ウチも落ち目になった任侠路線の次の手をと苦しんでいたとき、新人のライター(飯干晃一?)が書いた毛色の変わったシナリオが目についたんです。ある組織暴力の実態をモデルにしたもので、ナマの迫力があった。そのころアメリカ映画の『ゴッドファーザー』が大当たりで、イタリア映画の『シシリーの黒い霧』や『コーザ・ノストラ』といったマフィアの暴露物が話題になっていた。実在の暴力団をモデルにしているので、ちょっと危険はあるがとにかくやってみようというので、監督に深作欣二を起用して、まず第一作として作らせたのが『仁義なき戦い』で、これがヒットしたので実録路線でゆこうということにしたわけだ』とそのいきさつを語っている」と書かれている[14]。『コーザ・ノストラ』を日本で配給したのは岡田が作った[52]東映洋画だった[53]。『月刊創』1977年5月号のインタビューでは、任侠映画をスパッと切って、実録映画に転換した理由を「任侠映画がマンネリになったから止めたんではなく、観客が別の方向の映画に行くのを見極めただけです」と述べている[54]。京都時代の盟友で、同じ撮影所長としてしのぎを削った鈴木晰成大映京都撮影所長は、「沈没しかけた東映丸をそのつど立て直して航行可能にした、それが岡田という男の凄さだよ」と話していたという[55]

1973年1月13日に公開された『仁義なき戦い』は大ヒットにより、当時の東映では珍しいロングランが実施され、1973年2月2日までの三週間興行だった[56]。岡田が「実録路線」という言葉を使ったのは『仁義なき戦い』公開中と見られる1973年1月後半か2月頭のことで[57]、『週刊現代』1973年2月12日号の記事で「"実録路線"は、やくざものとはかぎらない」と話しており[57]、『仁義なき戦い』は公開前より続編の制作が決定していたともいわれ[58]、つまり1973年に実録映画のヒットが続いたから「実録路線」を敷いたのではなく、『仁義なき戦い』がヒットしたら「実録映画」を路線化しようと決めていたものと見られる。興味深いのは"岡田茂の『事件が起きたら即、映画』術"と評されるように[59]、当時の複数の記事で岡田が、黒い霧事件を扱う『実録・プロ野球・黒い霧事件』[57][60][61]、『実録・連合赤軍』[57][62]田中角栄の自伝を実録で描く『任侠総理』[61][63]、『実録大映興亡史』[57][64]、有名な『実録・共産党[65]などを企画している、と話していることである[57][61][64]。『任侠総理』は『仁義なき戦い』の製作と同時期に田中角栄を実録で描く企画として挙げたもので[61][63]、岡田の前任社長・大川博が田中と同じ新潟県出身で親交があり[63]、岡田も田中と付き合いがあったことから[66]田中が首相在任時の1972年夏に自民党広報部に正式に映画製作を申し入れたが[63]、諸事情があり製作されなかった[63]。『実録大映興亡史』は大映永田雅一の功績を讃えつつ、真の目的は、いずれビデオの時代が来るとソフトが不足すると読み[57]、テレビでまだ未放映の『羅生門』を始め、多くの名作を持つ会社再建中だった大映の旧作の版権を安く買い叩けないか企んでいたといわれる[57]。これは岡田が「実録ヤクザ映画」だけでなく「実録犯罪映画」などを含めて、範囲の広い「実録映画」の量産を最初は考えていたものと推察されるが、「実録ヤクザ映画」より「実録犯罪映画」などの方が製作に当たって問題が大きかったため、上記の企画を後回しにし、大きな支持を得た「実録ヤクザ映画」の製作を押し通したものと見られる。

東映実録映画の歴史[編集]

「実録映画」というと通常は「実録ヤクザ映画」や「実録犯罪映画」、有名な事件やイベント、人などの内幕を描く映画をイメージすることが多いが[10][51][67]、岡田は「実録犯罪映画」「実録猟奇犯罪映画」(エクスプロイテーション映画)のパイオニアでもある(戦後猟奇犯罪史#東映実録犯罪映画)。戦前さかんに作られたといわれる「実録犯罪映画」は[68]、戦後各社娯楽性の高い映画が量産され、あまり作られなかった。東映も娯楽時代劇を量産したため手を出さなかったが[68]、1965年半ば以降、岡田が時代劇をヤクザ映画やエログロ映画に転換する過程で、企画として挙げてきた[68][69][70][71][72]。岡田のプロデュース三作目は、横溝正史津山事件をヒントに執筆したといわれる『八つ墓村』の映画化、1951年の『八ツ墓村』で、早い時期に実録犯罪ものに興味を持っていた。こうした小説由来ではないオリジナルの「実録犯罪映画」は、東映では延命院日当を扱った1966年3月公開の『女犯破戒』(田村高廣主演・工藤栄一監督)が最初[69][70][71]。これは実録ものをやろうとして挙げた企画ではなく、好色路線(東映ポルノ)の一つとして思いついたものであった[70][71]。次が石井輝男異常性愛路線を敷いた際に企画した1969年8月公開の『明治大正昭和 猟奇女犯罪史[59][68][72][73][74][75]。『猟奇女犯罪史』の製作を伝える当時のスポーツニッポン1969年8月21日の記事に「史実を再現した異色作!! 五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相」「『猟奇女犯罪史』で実路線なるものの先鞭をつけた」などの記述が見られ[74]内外タイムス1969年7月30日には「東映、"実路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』東映が㊙シリーズにかわって、新しく女の本性を描く、"実話路線"を打ち出した」などと書かれている[75]。『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』は、後のワイドショーの再現フィルムに影響を与えたと評価され[76]、今日、映画は勿論、テレビの再現ドラマでもよく扱われる"実録犯罪もの"とハシリといわれる[59][68][77]。また同じ1969年秋の『日本暗殺秘録』製作を伝える記事に「東映は刺激路線から、実話路線に切り変え『日本暗殺秘録』がこのほどクランクイン」[78]、「八つの事件、実録風に」という記述が見られ[79]。「東映では明年(1970年)五月に『実録二・二六事件』という作品も企画しており…」という記事が見られる[80]。『日本暗殺秘録』は、岡田が「70年安保を控えて映画も時代に即応した強度の暴力が受けるはず。安藤昇の次回作『日本暴力団 組長』でさえ、"ゲバふう"のムードを取り入れるつもりだ」などと打ち出した「暴力路線」「ゲバルト路線」の第一弾であった[79][81]。岡田は当時、東映映画の製作・配給・興行の全ての責任者だった[82]。また文中に"実録"とは書かれていないが1968年夏の複数の文献に「ヤクザ映画もやります、お色気も…というゴッタ煮商法のプランナー・東映岡田茂常務(製作本部長)が『ああ全学連』を企画している」などという記事があり[83][84][85]、岡田は「世界に勇名を馳せた安保騒動と、いまの世界的なスチューデント・パワーね、これを背景にした全学連の第二次黄金時代を正面から取り上げようと思ったんです...特定のイデオロギーに捉われず、あくまでも中立的な立場でいきたい。したがって派閥関係にも細心の注意を払いたい。全学連をひとつの若いエネルギーの表れとして捉えてみたい。樺美智子さんの死とか、騒動のあと別の人生をたどった者もいる...やはりドラマは必要だと考えなおしているとこ...今や"ゼンガクレン"は、フジヤマ、ゲイシャと並んで、世界に冠たるニッポン名物。『ゼンガクレン』というタイトルで海外にも輸出できる。公開は来年(1969年)6月を予定。監督は"闘士"の中島貞夫、キャストは新劇人を中心に組むつもりだ」などと話しており[83][84][85]、1960年代後半に、既に"実録犯罪路線"を実施していた。毎日新聞は実録路線の転換ではなく「任侠路線から政治路線への転換か?」と書いている[83]。つまり1973年の『仁義なき戦い』の大ヒットで実録路線を思いついたのではなく、実録路線は元からやっていたが、「実録ヤクザ映画」がウケたため、これはいけると「実録ヤクザ映画」を路線化したのである。

岡田東映社長は、"実録もの"がマスコミの話題になりやすいことから[51][86]、しきりに「実録ものを作れ」と指示した[5][86][87]。マスコミの話題にはなったが、トラブルも続出し[88]、ある"実録もの"を見て本気で怒った暴力団関係者が、東映映画の責任は社長にあると[86]、「岡田茂を殺しに行く」という物騒な話が出て、俊藤浩滋がビックリして知り合いに頼んで収めてもらったこともあるという[86]

「仁義なき戦いシリーズ」のキャメラマン・吉田貞次は、「実録やくざ映画は岡田茂社長の考え方がすごく入ってる。大川博さんが生きていたら実録やくざ映画は生まれなかったでしょう。そこそこは、やったかもしれないけど、あんな極端には、やらせなかっただろうと思う」と述べている[89]。岡田は、「実録路線でいこうと。何となくそういう勘があった。でも実在の親分をコケにするような場面もあって、よくやれたなと思うね」などと話している[90]

実録映画が量産できたのは岡田が田岡一雄と仲がよかったためで[91]、実録映画の脚本を多数手掛けた高田宏治は「『あいつぶちのめす』といわれたこともあったけど、僕の場合は東映が守ってくれた。田岡一雄さんが壁になってくれたんです」と述べている[92]

「実録路線」の旗手となったのは深作欣二であった。深作は戦後史に対して強い問題意識を持っていた[13]。東映実録路線全般が凡庸なヤクザ映画に堕することなく、時代を撃つような批判力を持つ物になったのも、戦後史の底辺に流れていた物を掴み出したいという意思が、作り手側に確固としてあったからである[13]。虚飾を剥ぎ取り、内実に迫ろうとするこうした動きは、時代の趨勢だったといえる[13]

評価[編集]

東映の実録路線は任侠路線に比べると短命に終わった[93]中島貞夫は「『仁義』が大ヒットしてるのを見ながら、これからどうなるんだろうという気持ちはありました。一つには、やくざ映画としてあんな素材はそう転がっていないということです。その予感は正しくて、それから2年もすると行き詰ってしまった。必死になって実録を探すんだけど、映画になるものなんて滅多にないんですよ」など述べている[93]

他社、他メディアへの波及[編集]

日活ロマンポルノも東映の「実録路線」に対抗して[94][95]、1973年下半期の大攻勢として「ロマン・ポルノ」「アクション・ポルノ」「実録・ポルノ」「ドキュメント・ポルノ」の四本柱を打ち出し[96]、1974年から"実録ポルノシリーズ"を始め[95]、『実録エロ事師たち』や『OL日記 濡れた札束』『実録ジプシー・ローズ』[注釈 1]などを製作した[94]。鈴木義昭は「ピンク映画も、実は東映実録路線の影響を受けている。高橋伴明とか中村幻児の世代はね。『仁義の墓場』で渡哲也が骨をかじるシーンを置き換えたのが『日本の拷問』の日野繭子です。実録路線と相互乗り入れしていたのが日活ロマンポルノです。スタートの『団地妻 昼下りの情事』からして実録的要素があるからね。『一条さゆり 濡れた欲情』なんて本人が出てくる実録(笑)、刑法175条に引っかかる犯罪映画。『実録ジプシー・ローズ』とか『実録桐かおる』とかいっぱいあったね。東映実録路線は、ある意味みんな犯罪映画。東映実録路線で戦後史を勉強したから、だいぶ偏っちゃった(笑)。山口組ってスゲエみたいな映画ばっかりだったから。自分らの時代って、子どもの頃、浅草辺りでも発砲事件があって、やくざって凄くある意味身近だった」などと述べている[98]

映画各社からも実録の方がフィクションより興行力があるという認識が持たれ[99]、「実録」を掲げることが一種の流行になり[99]、容易にこれを冠した作品もあらわれるようになった[13]。また洋画配給会社も実録風の映画を買い付けたり[99]、実録風の宣伝を取り入れたりすることも増えた[99]。『週刊文春』1973年3月12日号では「安上がりな"実録"に力を入れこむ邦画界」という記事が載り、「戸田城聖北一輝、玉本敏雄といえば、なにを連想するかネ?さて、三人とも日蓮宗信者?いや、映画のモデルなんだ。東宝の『人間革命』、ATGで『戒厳令』、日活が『性豪列伝 チェンマイの幼な妻』てナ調子。そういえば松竹でも、北海道十勝の"ワイン町長"の伝記を『喜劇・怪物町長』のタイトルで映画化するとか。"実録路線"のトップをきったのは東映。田中角栄がモデルの拒否でボツになったのにコリず、『仁義なき戦い』を作ってバカ当り。『マスコミで騒がれた事件や人物はなんでもかんでも映画にしてしまえ』とサ。自社の俳優・安藤昇の"実録"まで作ってる。早いハナシがヤクザ映画なんだがね。大阪で殺された16歳のクラブホステスも『ネオンくらげ』で"やる"そう。原作料もいらず、ウルサイ俳優も使わず、一般募集で似てるのを見つけてくりゃいいんだから、実録映画ただもうけみたいなもんだ。日本ばかりでなく、海のむこうでも実録・伝記映画が大流行。アレック・ギネスヒットラーアドルフ・ヒトラー 最後の10日間英語版』、オーソン・ウェルズチャーチルリチャード・バートンリズ・テイラー夫妻のムッソリーニ伝などなど。しかし、映画にされてウレシがってる人はいいが、『ネオンくらげ』のモデルの遺族は気の毒だねえ。近く日本でも公開される『ビリー・ホリディ物語』(『ビリー・ホリディ物語/奇妙な果実)』)では、モデルの黒人女性歌手ビリーの遺族に、遊んで暮らしてゆけるだけの年金が支払われたそうだ。ゴタゴタがおきれば、話題になってなお結構、というのが普通だがねえ。"実録"もいいが、あとで『実録・人権じゅうりん』て番外作がつくのはゴメンだ」と書かれた[51]。『ネオンくらげ』は内藤誠のオリジナル脚本で"実録もの"という認識を持たれていないが、当初の企画は"実録もの"だったのある[51][100]。また同年4月には「オレがOKしなきゃ撮らせない」と、全ての企画を岡田自身が決定する陣頭指揮を宣言したが[101]、実録ものの新方針第一弾が千葉真一主演の『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』で、これは東映の太田浩児プロデューサーが1973年に実録物の一つとして『実録・陸軍中野学校』というタイトルで企画を提出し製作が決まっていたが、1973年の4月に陸軍中野学校出身の小野田寛郎の救出が不成功に終わり製作が延期された[102]。しかし1974年の小野田の発見で、岡田の新方針により急遽企画が復活、製作が決定した[102][103][104]。このように東映は実録ヤクザ映画を量産した時期に、ヤクザでない実録映画も多少作った。

藤木TDCは「東映が山口組とつるんで実録映画を作り出したとき、東映に警察が入って『止めろ』って言った後、実録犯罪映画が増えました。昭和の時代は実録映画や犯罪映画の全盛期でしたね。ピンク映画でも実録犯罪ものがいっぱい作られましたし、『連続23人強姦魔』とか、『若妻人質性拷問』とか『誘拐密室暴行』とか『TATTOO<刺青>あり』や『冷血』とかね。『海燕ジョーの奇跡』とか『南へ走れ、海の道を!』とか、やくざ映画をそのまま撮れないから青春映画っぽく撮る映画も出来た。映画は実録的要素がどんどん増えました。2010年代も流行ってますよ、『冷たい熱帯魚』とか『凶悪』とか、テレビドラマだと『黒い看護婦』とかね。今は人権問題が厳しいから昔とはタッチが違うけど。1980年代のアイドル映画時代にもアイドルの実録みたいなのが出てきましたね。セイントフォーの『ザ・オーディション』なんて芸能界の実録の隠れた傑作です。単なるアイドル映画とは明らかに一線を画しているけど、今は公開できないんじゃないかな。吉川晃司の『すかんぴんウォーク』も芸能界の裏側を描いています」などと論じている[98]

テレビの番組タイトルで"実録"というタイトルが付けられた最初が何だったかは分からないが、 2019年12月27日には『実録!金の事件簿8 年末最後の戦いSP』(フジテレビ)と『実録!解決ファイル★婚活アプリで女性から金盗む男にフット後藤&ミキ・粗品が驚愕』(TBS)という、キー局プライムタイムで同じ時間帯の二つの番組タイトルに"実録"というタイトルが冠された[105]

映画監督の市川徹が最初に発案したとされる。

実録シリーズの一覧[編集]

東映実録路線[編集]

オリジナルビデオ実録シリーズ[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『実録ジプシー・ローズ』は同じ企画が東映にあり、先を越されまいとした日活が田中真理主演で製作を発表した。しかし田中が「私の心の琴線に触れない」と出演を拒否し、新人・ひろみ摩耶(現・ひろみ麻耶)主演、西村昭五郎監督で製作された[97]

出典[編集]

  1. ^ a b c 『仁義なき戦い』が今称賛されるのは震災で絆が望まれるから人気マフィア映画アンケート 圧倒的な支持を集めた作品は?
  2. ^ “長部日出雄の映画と私の昭和 「仁義なき戦い」(日本・1973年)”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2017年10月21日). オリジナルの2017年12月9日時点におけるアーカイブ。. https://archive.md/ndn8p 
  3. ^ 深作欣二監督・菅原文太主演『仁義なき戦い』デジタルリマスター版が第68回カンヌ国際映画祭にて上映決定!
  4. ^ 実録の原点、暴力の頂点。映画『仁義なき戦い』公開40周年/深作欣二監督没後10年・シリーズ5部作一挙上映+深作監督作品ベスト14本上映、開催決定!
  5. ^ a b 「東映ヤクザ映画」は日本の遺産である!<特別対談・杉作J太郎×坪内祐三>オールジャニーズの実録ヤクザ映画化希望!【特別対談・杉作J太郎×坪内祐三】
  6. ^ 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT
  7. ^ a b #日本映画は生きている、276-281頁。内藤誠「日本映画とやくざ、あるいは『不良性感度の時代』 3.実録路線映画の登場とその解体」。
  8. ^ 石飛徳樹 (2019年7月25日). “実録と虚構、対照的ヤクザ像 菅原文太さんと高倉健さん”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). オリジナルの2019年7月25日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2019-0725-0129-31/https://www.asahi.com:443/articles/ASGD1560BGD1ULZU006.html ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画 - 平凡社公開から40年!今も語られる『仁義なき戦い』の魅力を解剖 - シネマトゥデイ映画館に催涙弾 実録スター 菅原文太の人気ぶり 〈週刊朝日〉|AERA 東映ビデオ:仁義なき戦い Blu-ray BOX 特集東映チャンネル 「仁義なき戦い」トークバトル 第1回『仁義なき戦い』への道山守さん、弾はまだはまだ残っとるがよう……映画「仁義なき戦い」: 新おとな総研 旅 名言巡礼 広島県呉市- 読売新聞”. 読売新聞 (2014年8月11日). 2017年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月16日閲覧。映画「仁義なき戦い」から 広島県呉市 : 動画 : 読売新聞〉、深作欣二「仁義なき戦い」の脚本に一目惚れ」『アサ芸+』、徳間書店、2012年12月25日、 オリジナルの2013年2月2日時点におけるアーカイブ、2013年2月2日閲覧 アウトローが織り成すドラマ 東映仁侠映画を徹底解明『仁義なき映画列伝』 「キネマ51」:第21回上映作品は「赤穂城断絶」 - 4Gamer.net
  9. ^ 時は実録任侠映画全盛期暴れん坊千葉真一の台頭! | 文春オンライン追悼・梅宮辰夫さん、生前語っていた「ヤクザ映画への熱い愛」
  10. ^ a b 『孤狼の血』が果たした実録映画路線、見事なまでの現代的再生!
  11. ^ a b ヤクザ映画TOP20調査 その変遷と証人たちが語る逸話
  12. ^ “東映のお家芸 実録路線&アニメがデジタルで復活!!”. 東映 (東映). (82020-05-29). オリジナルの2020年6月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200606022856/https://www.toei.co.jp/release/movie/1219013_979.html 2020年8月29日閲覧。 
  13. ^ a b c d e f g #100物語、167頁。
  14. ^ a b c d 草壁久四郎「実録/戦後日本映画史 人と事件とー最終回 任侠・実録で血路を開いた東映・岡田 松竹・東宝、日活などの老舗に比べ新参だった東映は、岡田茂を中心に試行錯誤を繰り返しながら逞しく成長してきた...」『宝石』1983年1月号、光文社、201-203頁。 
  15. ^ a b 「新作情報 東映の『ゴッドブラザー』」『キネマ旬報』1972年(昭和47年)9月上旬号 147-148頁、キネマ旬報社。 
  16. ^ a b 岡田茂「映画界のドンが語る『銀幕の昭和史』」『新潮45』2004年(平成16年)9月号 206頁、新潮社 
  17. ^ a b 日本のヤクザは今 アウトローの魅力:エンターテインメントの中のヤクザ”. nippon.com. 笹川平和財団. 2018年5月18日閲覧。
  18. ^ 525二木会 - 東京修猷会『仁義なき戦い』が今称賛されるのは震災で絆が望まれるから人気マフィア映画アンケート 圧倒的な支持を集めた作品は?
  19. ^ 岡田茂・水野和夫・黒井和夫「東映の今後についてのイメージ設計は?岡田茂社長にその方針を聞く 『日本アクションの限界』」『キネマ旬報』1972年10月上旬号、キネマ旬報社、114頁。 
  20. ^ 水野和夫・黒井和男岡田茂「世界の映画作家19/アメリカ・イタリア・日本のトップ三人」『キネマ旬報』1972年(昭和47年)9月下旬号 86-89頁、キネマ旬報社。 
  21. ^ #任侠映画伝、239-240頁。
  22. ^ #昭和の劇、1-4頁。巻末特別付録「笠原和夫と私ーインタビューによる証言 岡田茂」
  23. ^ a b c #教科書、184–186頁。
  24. ^ a b c d #活動屋人生、35-36頁。
  25. ^ a b #悔いなき、178-179頁。
  26. ^ #深作欣二の軌跡、147、152頁。
  27. ^ 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年、57頁。ISBN 978-4-10-460901-7 
  28. ^ a b #懐かし地獄、111-112頁。
  29. ^ インタビュアー 高田純「シナリオライターにとっての思想とは? 笠原和夫氏に聞く その2」『キネマ旬報』1975年(昭和50年)8月上旬号 79-80頁、キネマ旬報社。 
  30. ^ a b c 「映画界の動き 『仁義なき戦い』の製作発表新作」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)1月新年特別号 177頁、キネマ旬報社。 
  31. ^ 松方弘樹さん 任侠、時代劇、バラエティー…時代時代で多彩な顔
  32. ^ 「深作欣二監督の『仁義なき戦い』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)1月新年特別号 182-183頁、キネマ旬報社。 「興行価値 『日本映画 東映実録路線 後編』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)5月上旬号 144頁、キネマ旬報社。 シネマシティ|ニュース 『仁義なき戦い』公開記念 惹句(じゃっく)師・関根忠郎氏トークショー筑摩書房 究極のドラマ 実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史 / 山平重樹<男>とは何だったのか? : やくざ映画にみる<男>の変容-酒井隆史Vシネシアター 仁義なき戦い
  33. ^ a b #浪漫、「仁義なき戦い ポスターギャラリー」、「仁義なき戦い アド(広告)・コレクション」他、5、18、212頁。
  34. ^ #大全、「新聞広告に見る実録やくざ映画史」、2頁。
  35. ^ a b #惹句術、170–187頁。
  36. ^ 「日本映画 東映実録任侠発車」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)正月特別号、160頁、キネマ旬報社。 
  37. ^ 「映画・トピック・ジャーナル他」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)2月下旬号 158-159、164頁、キネマ旬報社。 
  38. ^ #その時代、98-99頁。
  39. ^ 「興行価値 『日本映画 東映実録路線 後編』」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)5月上旬号 144頁、キネマ旬報社。 
  40. ^ a b 日本映画情報システム
  41. ^ a b 「東映、ボウリング場を大量整理―NN計画で全国事業網拡大、直営館の再開発はかる」『月刊ビデオ&ミュージック』1973年8月号、東京映音、14頁。 
  42. ^ 追悼・高倉健 銀幕を共にした盟友が語る「高倉健」という人物(3)石倉三郎は役者としての気概を教えられた竹中労「連載・日本映画縦断・26 『東映京撮/映画づくりの現場から・下 〔回想のマキノ映画・その5〕』」『キネマ旬報』1974年(昭和49年)9月上旬号 128頁、キネマ旬報社。 植草信和「映画・書評 『映画界のドン岡田茂の活動屋人生』」『キネマ旬報』2012年(平成25年)7月下旬号 174-175頁、キネマ旬報社。 植草信和「2011年映画界十大ニュース 5月9日、東映名誉会長・岡田茂逝く 最後の活動屋の映画人生」『キネマ旬報』2012年(平成25年)2月下旬号 244頁、キネマ旬報社。 植草信和「映画・書評 『映画界のドン岡田茂の活動屋人生』」『キネマ旬報』2012年平成25年)7月下旬号 174-175頁、キネマ旬報社。 
  43. ^ #任侠映画伝、228頁。牧村康正・山田哲久『宇宙戦艦ヤマトを作った男 西崎義展の狂気』講談社、2015年、138頁。ISBN 978-4-06-219674-1 
  44. ^ #シネマの極道、94-95頁。
  45. ^ #「仁義なき戦い」をつくった男たち、120-133頁。米原尚志「聞き書き 東映元社長・岡田茂 『東映の神髄』とはなにか」
  46. ^ a b #映画の奈落、「実録やくざ映画の時代」、59-60頁。
  47. ^ 「東映ヤクザ映画」は日本の遺産である!【特別対談・杉作J太郎×坪内祐三】
  48. ^ #浪漫、「仁義なき戦い 映画批評」、220頁。
  49. ^ #大全、「東映実録やくざ映画 リアルタイム映画評論検証」、54-55頁。
  50. ^ 「映画館」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)正月特別号 164頁、キネマ旬報社。 品田雄吉「今週の映画 『仁義なき戦い』」『サンデー毎日』1973年(昭和48年)2月4日号 45頁、毎日新聞社。 「映画館」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)3月上旬号 148頁、キネマ旬報社。 
  51. ^ a b c d e 「〈ウの目 タカの目〉安上がりな"実録"に力を入れこむ邦画界」『週刊文春』1973年3月12日号、文藝春秋、23頁。 
  52. ^ #教科書、「洋高邦低なら洋ピンでテコ入れ」、182-183頁。
  53. ^ #東映の軌跡、「洋画部の新設 洋画の配給に乗り出す」203頁。
  54. ^ 「【ざっくばらん対談】 ー異色経済人登場 映画界のあばれん坊 岡田茂(東映社長) ホスト勝田健」『月刊創』1977年5月号、創出版、195頁。 
  55. ^ 植草信和「2011年映画界十大ニュース 5月9日、東映名誉会長・岡田茂逝く 最後の活動屋の映画人生」『キネマ旬報』2012年平成25年)2月下旬号 244頁、キネマ旬報社。 
  56. ^ #悔いなき、423頁。
  57. ^ a b c d e f g h 「LOOK 映画 『実録・大映を作る東映の悪のり」『週刊現代』1973年2月12日号、講談社、43頁。 
  58. ^ 『仁義なき戦い』生んだ、終わりなき“微妙に”若き深作欣二が発したその熱は、今も息づいている
  59. ^ a b c 「東映・岡田茂の"事件が起きたら即、映画"術 文・高鳥都」『映画秘宝』2013年11月号、洋泉社、58頁。 
  60. ^ 「プロ野球悲劇のスター映画界へ? 荒川尭(元ヤクルト)のこれから」『週刊朝日』1975年5月16日号、朝日新聞社、37頁。 
  61. ^ a b c d ニッポンの「超大作映画」秘史が全部わかる!<仰天真相・なぜかポシャった「幻の企画書」たち>
  62. ^ 「映画界東西南北談議 粒揃いの各社の企画ラインアップ」『映画時報』1973年3月号、映画時報社、34頁。 
  63. ^ a b c d e 「タウン 東映版『総理自伝映画』のプラス・マイナス」『週刊新潮』1972年8月19日号、新潮社、13頁。 
  64. ^ a b 「NEWSMAKERS実録・大映が東映で企画された裏」『週刊ポスト』1973年2月16日号、小学館、36頁。 
  65. ^ 笠原和夫荒井晴彦絓秀実『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』太田出版、2002年、344-346頁。ISBN 4-87233-695-X 
  66. ^ #悔いなき、170-175頁。
  67. ^ 究極のドラマ 実録ヤクザ映画で学ぶ抗争史 ほんとにあった殺人・強盗・監禁・冤罪事件!傑作ぞろいの実録犯罪映画たち!-映画秘宝『全員死刑』『凶悪』プロデューサーが実録犯罪映画作る理由実録犯罪史シリーズ 最期のドライブ|映画・チャンネルNECO創立60周年記念!東映オールスターキャンペーン
  68. ^ a b c d e #アナーキー、216-217 頁。
  69. ^ a b 「『どうなる大川橋蔵の新路線 舞台復帰か? テレビに進出か? 歴史的決断でD級転落?』」『週刊明星』1965年11月14日号、集英社、34-37頁。 
  70. ^ a b c 「タウン 女優を悩ます東映"好色"新路線」『週刊新潮』1965年2月11日号、新潮社、15頁。 
  71. ^ a b c 「各社が苦労する新年度路線の確立 異色的な東映の『好色路線』」『映画時報』1966年1月号、映画時報社、22頁。 
  72. ^ a b 「東映不良性感度映画の世界 東映実録犯罪映画の系譜 文・モルモット吉田」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、60頁。 
  73. ^ #活動屋人生、329頁。
  74. ^ a b “明治・大正・昭和 『猟奇女犯罪史』 史実を再現した異色作!! 五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相 女の本性を描写”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 8. (1969年8月21日) 
  75. ^ a b “東映、"実話路線"へ 第一弾は『猟奇女犯罪史』 阿部定事件をモデル 失踪の由美てる子がカムバック 知られざる真実あばく”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年7月30日) 
  76. ^ 新文芸坐石井輝男 映画チラシ
  77. ^ 「東映不良性感度映画の世界 東映実録犯罪映画の系譜 文・モルモット吉田」『映画秘宝』2011年8月号 60頁、洋泉社、60頁。 
  78. ^ “ききミミ”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年8月30日) 
  79. ^ a b “娯楽 テロを描く『日本暗殺秘録』(東映) 八つの事件、実録風に”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1969年9月25日) 
  80. ^ “"社会派"映画『日本暗殺秘録』(東映) 明治・大正・昭和 三代の八事件を選んでテロの底流探る”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): pp. 9. (1969年10月7日) 
  81. ^ “東映、暴力路線に転換 "ゲバ時代"に即応 石井監督『やくざ刑罰史』開始 性愛ものは手控え”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 15. (1969年5月24日) 「70年安保も商売ダネ 東映が"刺激暴力路線"」『週刊朝日』1969年6月20日号、朝日新聞社、123頁。 「三行メモ」『週刊大衆』1969年8月14日号、双葉社、14頁。 石井輝男福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、202-203,340頁。ISBN 4-948735-08-6 
  82. ^ 「映画界の動き 大川東映社長好景気を語る」『キネマ旬報』1969年9月下旬号、キネマ旬報社、80頁“東映は1969年八月期決算(三月~八月)で、東映本体だけで、総収入110億円を越える。むろん新記録である。好調の原因はなんといっても映画事業と付帯事業の二大支柱がぐんぐん伸びていることだ。映画事業は、大川社長によると「製作・配給・興行の全部を映画本部という名のもとに一本化し、岡田茂常務・映画本部長にまかせてしまったのが、非常に効果をあげた」という...” 
  83. ^ a b c “こんどは政治路線もの東映『ああゝ全学連』を製作”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 9. (1968年7月9日) 
  84. ^ a b 「観客の目外貨獲得する『ああ全学連』」『週刊文春』1968年8月5日号、文藝春秋、16頁。 
  85. ^ a b 「映画になるゼンガクレン」『週刊平凡』1968年7月18日号、平凡出版、51頁。 
  86. ^ a b c d #任侠映画伝、272-274頁。
  87. ^ ニッポンの「超大作映画」秘史が全部わかる!<仰天真相・なぜかポシャった「幻の企画書」たち>
  88. ^ 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】実録編(下) 前代未聞の東映本社ガサ入れ 組への資金流出疑い (1/2ページ)
  89. ^ FB編集同人編「キャメラマン吉田貞次 聞き書き 満映から『仁義なき戦い』まで」『FB 映画研究誌』1994年(平成6年)第三号 128-129頁、行路社。 
  90. ^ 細野憲昭 (1998年5月12日). “【話の肖像画】東映会長岡田茂さん(5)『うちの任侠映画はジャン・ギャバン』”. 産経新聞 (産経新聞社): p. 1 
  91. ^ 525二木会 - 福岡県立修猷館高等学校同窓会 東京修猷会命と命がカチ合った、ヤクザと警察まで巻き込んだ事件が発生! 「東映京都撮影所」で本当にあった映画を超えた出来事とは?抗争と流血 -東映実録路線の時代- シネマヴェーラ渋谷梅宮、高倉、菅原・・・ 東映「ヤクザ映画」スター秘話 本物のヤクザと親しくなる理由
  92. ^ 「ブックレビュー インタビュー 『映画の奈落 北陸代理戦争事件』 高田宏治×伊藤彰彦 聞き手・桂千穂 磯田勉」『シナリオ』2014年6月号、日本シナリオ作家協会、23頁。 
  93. ^ a b 総特集=菅原文太-反骨の肖像- /【インタビュー】 中島貞夫 飢えていた文ちゃん」『現代思想』2015年4月臨時増刊号、青土社、67頁、ISBN 978-4-7917-1298-4 
  94. ^ a b 「東映に対抗する日活『実録路線』」『週刊朝日』1973年(昭和48年)12月28日号 39頁、朝日新聞社。 
  95. ^ a b 「邦画新作情報」『キネマ旬報』1973年(昭和48年)12月下旬号 173-174頁、キネマ旬報社。 
  96. ^ 「ビジネス・ガイド 日活、月二億円の配収目標に大攻勢を展開」『月刊ビデオ&ミュージック』1973年9月号、東京映音、58-59頁。 
  97. ^ 「ルック・るっく 人と事件 ポルノの旗手田中真理をイビってやれ」『週刊現代』、講談社、1973年12月27日号、39頁。 
  98. ^ a b 比嘉健二「消された昭和の日本映画 この25本を見よ!【特集3】 鈴木義昭vs.藤木TDC 埋もれた映画を語る」『実話裏歴史スペシャルvol.28』2015年5月20日、ミリオン出版、42-45頁、ISBN 9784813072348 
  99. ^ a b c d 「ジャック110番」『月刊ビデオ&ミュージック』1973年12月号、東京映音、42-43頁。 
  100. ^ 「失業ポルノ女優の『求む!就職先』」『週刊文春』1974年4月8日号、文藝春秋、22頁。 「またぞろポルノ再開の東映」『週刊読売』1975年2月1日号、読売新聞社、33頁。 「東映不良性感度映画の世界 追悼・岡田茂 東映不良性感度HISTORY 」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、62頁。 
  101. ^ 映画界のドン 2012, pp. 43–57.
  102. ^ a b 「〈ルック映画〉 早過ぎません?"実録ルバング島"」『週刊現代』1974年3月28日号、講談社、47頁。 
  103. ^ 「映画になる小野田寛郎元少尉ドノ」『サンデー毎日』1974年3月31日号、毎日新聞社、40頁。 
  104. ^ #活動屋人生、52–53頁。
  105. ^ 実録!解決ファイル★婚活アプリで女性から金盗む男にフット後藤&ミキ・粗品が驚愕実録!金の事件簿 - フジテレビ

参考文献[編集]