東京オリンピック (1940年)
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東京オリンピック(Games of the XII Olympiad)は、1940年9月21日から10月6日まで、開催される予定であった夏季オリンピック。日中戦争の影響により、日本が開催権を返上したため開催されなかった。また代替地のヘルシンキでの開催も、第二次世界大戦により行われなかった。
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[編集] 経緯
[編集] 意思表示から招致へ
1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本でのオリンピック開催は可能か否か、という話題に花をさかせた。このエピソードが東京市当局や永田秀次郎東京市長にも伝わり、にわかにオリンピック誘致の機運が高まってきた。翌1930年にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、オリンピック東京開催は俄然実現可能である、との調査報告書を市長あてに提出した。
1931年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、駒沢村に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。
永田市長は欧州駐在大使や公使、さらにはジュネーヴの国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎にあてて、招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。
1932年に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。
1940年大会の開催地を決定する1935年のIOCオスロ総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの三市の争いとなった(開催都市は、その5年前の総会で決定するとするのが当時のルールであった)。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題」が挙げられた。東京市は前者に関しては、例えばマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当り100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の二市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど招致合戦は白熱した。
日本は友好国であったイタリアのベニート・ムッソリーニ首相に直接交渉を行いローマの辞退を勝ち取ったが、総会は会期切れとなり開催地決定投票を翌年のベルリンに延期するという異例の展開となった。
オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上。翌1936年3月、IOC委員長アンリ・ド・バイエ=ラトゥールの来日を迎え、好感触を得た。7月31日の投票では東京34票、ヘルシンキ27票で東京開催が決定した。オリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、本格的な準備に着手した。
[編集] 開催権返上へ
[編集] 国内からの反対意見
その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催予定)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が出された。
一方で、1937年3月に衆議院予算総会で河野一郎議員(政友会)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」と発言。4ヵ月後に盧溝橋事件が起こると陸軍が選手選出に異論を唱えた。
1938年に入ると、日中戦争の長期化が予想されるようになった。河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。大新聞ではオリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫を理由に軍部が「木材か石材を使え」などと無理な注文を出したりして、反対の態度を鮮明にした。また右翼団体からは相変わらず「満州国選手団」の参加を求める抗議行動が続いていた。
[編集] 国外からの反対意見
同年3月にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会では「開会に至ってもなお中国大陸での動乱が収まらなかった時はどうするのか」という質問に対し、日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。
カイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦のオーストラリア、大会開催権を争っていたフィンランドから中止を求める声が上がっており、日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。また、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任してしまった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥール伯爵から日本に対し開催辞退の話がもちかけられてきた。
[編集] 返上決定とその後
これを受けて日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。
こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県戸田のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までにできあがり、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、東京都世田谷区駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。
なお、戦前に中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1964年大会開催に当たって池田内閣で「オリンピック担当国務大臣(兼建設大臣)」を務めた。これは、その前歴を知る池田勇人が「以前開催に反対した人間の言うことなら皆従うだろう」という意向で起用したともいわれる。
[編集] その他
- 本大会開催が決定した1936年7月31日IOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが五輪言い換えの始まりである。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、五輪旗の五つの輪と宮本武蔵の『五輪書』からこの略称を思いついたという。
- 1940年のオリンピックを争った三都市は、戦後、ヘルシンキ→ローマ→東京の順で開催を実現している。
[編集] 参考文献
- 池井 優『オリンピックの政治学』(丸善ライブラリー、1992年) ISBN 4-621-05053-2
- 橋本一夫『幻の東京オリンピック』(日本放送出版協会、1994年) ISBN 4-14-001709-0
- 鈴木 明『1936年ベルリン至急電 東京、遂に勝てり!』(小学館、1994年) ISBN 4-09-387112-4
- 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展』(中公新書、1998年) ISBN 4-12-101406-5
- 波多野 勝『東京オリンピックへの遥かな道 招致活動の軌跡1930-1964』(草思社、2004年) ISBN 4-7942-1335-2
[編集] 関連項目
- 国際オリンピック委員会
- 夏季オリンピック
- ヘルシンキオリンピック(1952年)
- 東京オリンピック(1964年)
- 札幌オリンピック (1940年)(1940年)
- Wikipedia:ウィキプロジェクト オリンピック
[編集] 外部リンク
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