杜整

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杜 整(と せい、生没年不詳)は、西魏からにかけての軍人は皇育。本貫京兆郡杜陵県

経歴[編集]

渭州刺史の杜闢の子として生まれた。9歳のとき、父を亡くすと、悲しみのあまり骨の立つまでに憔悴し、母に孝事したことで知られた。成長すると、勇敢で膂力にすぐれ、孫子呉子の兵法を好んで読んだ。西魏の大統末年、武郷侯の爵位を嗣いだ。宇文泰に召されて側近となった。後に宇文護の子の中山公宇文訓に仕えて、親しく待遇され、都督に任ぜられた。北周明帝のとき、内侍上士となり、儀同三司に累進し、武州刺史に任ぜられた。武帝の下で北斉の平定にあたり、上儀同の位を加えられ、爵位は平原県公に進み、勲曹中大夫となった。

580年楊堅丞相となると、杜整の位は開府儀同三司に進んだ。581年、隋が建国されると、上開府の位を加えられ、長広郡公に進み、左武衛将軍に任ぜられた。在職すること数年、母の喪のためひとたび職を去った。586年突厥が隋の北辺に侵入すると、衛王楊爽が隋軍を統帥して北伐にあたり、杜整はその下で行軍総管兼元帥長史となった。合川まで進んだが、突厥軍と遭遇することなく帰還した。杜整は南朝陳を平定する策を上奏して、文帝(楊堅)に容れられ、行軍総管として襄陽に駐屯することとなった。まもなく病没した。享年は55。を襄といった。

子の杜楷が後を嗣いだ。

弟の杜粛もまた知られ、隋の開皇初年に通直散騎常侍・北地郡太守となった。

伝記資料[編集]