李容九

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李容九

李容九(イ・ヨング、이용구1868年1月21日 - 1912年5月22日)は、大韓帝国の政治家である。日韓併合の推進者の一人。慶尚北道尚州出身。現在ではチンイルパ親日派)つまり「売国奴」とされる。は大有(テユ、대유)、は海山(ヘサン、해산)。

[編集] 人物

両班の高位階級であった門閥の家に生まれた。若くして崔時享東学に加入し、1894年には甲午農民戦争(東学党の乱)を指揮し日本軍と戦った。1898年、李容九ら東学党は逮捕されたが、李容九は投獄中黙秘を続け、後に釈放された。1901年、李容九は、東学党を天道教と改名した孫秉熙と共に来日、日露戦争において親日となる。

1904年、李容九は宋秉畯と共に一進会を設立し、李容九は会長となる。アジア主義大東合邦論を掲げ、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張。李容九は、さらに、日本李氏朝鮮が軍事同盟を結ぶことが、ロシアに対抗し、大韓帝国富国強兵を図る方法であると主張した。1906年、李容九は日韓合邦(韓国併合とは全く異なる概念)の最初の主張を行い、また同年、天道教を脱退し侍天教を設立し、その教祖となる。伊藤博文の死後、李容九は一進会員との連名で「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を純宗曾禰荒助韓国統監、首相李完用に提出している。1910年8月22日日韓併合の後、李容九は9月25日に一進会を解散。1911年、疲労から漢城病院に入院。1912年5月22日に死去。

日韓合邦については、李容九は内田良平とともに、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動したが、実際には日本による韓国の一方的な併合となった。日韓併合によって、朝鮮王族は日本の「公族」となり、朝鮮の有力者らの一部は日本の「華族」に列せられたが、李容九は爵位を辞退し悲嘆のうちに亡くなっている。李は、数度にわたる朝鮮の政治改革の失敗から、両班(朝鮮の支配階層)による下層階級への搾取虐待を朝鮮人自身の力で克服することを不可能と考えており、日本との合邦によって初めてこれが実現できると信じていた。

しかし日本政府に裏切られたと知ったとき、授爵を断って、須磨で憤死した。その間の経緯は黒竜会『日韓合邦秘史』(上下、一九三〇年刊)及びその縮約である内田良平の『日韓合邦』に詳しく書かれている(竹内好、「日本のアジア主義」)。

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