李公蘊

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李公蘊
李朝
初代皇帝
Tượng Lý Thái Tổ.jpg
ハノイ市、リ・タイト公園のリ・タイト(李太祖)像
国号 大越
王朝 李朝
在位期間 1010年 - 1028年
都城 昇龍(タンロン、現ハノイ)
姓・諱 李公蘊
尊号 奉天至理應運自在聖明龍見睿文英武崇仁廣孝天下太平欽明光宅章明萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝
諡号 神武皇帝
廟号 太祖(タイト)
生年 974年
没年 1028年
顕慶王
明徳太后
陵墓 寿陵
元号 順天 1010年-1028年

李公蘊(りこううんベトナム語: Lý Công Uẩn974年3月8日1028年3月31日兆衍[1]ベトナム李朝の初代皇帝である。1009年から1028年にかけ在位した。元号順天廟号李太祖(りたいそ・ベトナム語: Lý Thái Tổ・リ・タイト)、神武皇帝ベトナム語: Thần Vũ Hoàng Đế)。死後、寿陵に葬られた。

生涯[編集]

来歴の謎[編集]

大越史記全書』などのベトナムの史書によれば、李公蘊は北江古法州亭榜村(現在のバクニン省トゥーソン県)の出身で、現在の亭榜村には李氏の墳墓と家祠が残されている。ただし、ベトナムの史書に李公蘊の出生時の詳しい状況を明確に記したものはない。ベトナムの民間伝承によれば、李公蘊には父親が無く、母の范氏が蕉山に遊んだ折、夢の中で神と交わった。そののちに李公蘊を生んだという。李公蘊が3歳の時、范氏は彼を古法寺の法師・李慶文の養子とした[2][3]

ベトナムの正史『大越史記全書』には李公蘊が即位した折、父に顯慶王との追号をしたとの記録がわずかにあるが、実父に関するそれ以上の記載はない[4]

現在の中国の学者の考察によれば、李公蘊は中国泉州閩越族であるという。北宋の学者・沈括が記した『夢溪筆談』の記載によれば、李公蘊は福建人とされている[note 1]。泉州晉江安海鎮で発見された『李莊暦内李氏房譜』による李氏の家系に関する記載によれば、李公蘊は李淳安の次子で、幼時に李淳安に従って泉州を離れ、安南(ベトナム)に移住した。ただ長兄李公澡のみは安海に残り、その地の李氏の始祖となった。華僑大学華人研究所の李天錫教授は、『宋史』と『元史』の記載を考証したうえで、李公蘊とのちの陳朝初代皇帝・陳煚は泉州安海の閩越族であるとする[5][1]

このほか、ある学者は李公蘊は太宗の子・曹王李明の後裔との説を立てている[6]

前黎朝への出仕[編集]

李公蘊は聡明にして学問を好み、その器は気宇壮大であった。幼いころから六祖寺に学んだが、僧の萬行は李公蘊の非凡ぶりを見抜き、いずれ名君として立つものと予感する[7][3]

李公蘊は長ずるに及んで経済や歴史を学び、やがて当時ベトナムを治めていた前黎朝に出仕し、殿前軍として使える[8]。李公蘊は前黎朝の初代皇帝・黎桓の娘・黎氏佛銀を娶り、黎の姓を賜る[note 2]

黎桓の死後、中宗が即位するものの、ほどなくして弟の黎龍鋌に殺害され、皇位は簒奪される。群臣がみな恐れて四散逃亡するなか、ただ李公蘊のみは帝の遺体を抱いて慟哭していた。黎龍鋌はその忠義ぶりに感心し、李公蘊を四廂軍副指揮使、さらに左親衛殿前指揮使に任命する[8]

黎龍鋌はを患い臥したままで政務を執ったため、「臥朝帝」と綽名される。彼は暴虐なる君主ゆえ、過酷なる統治に人心は離反していた。そんな折、古法州延蘊郷にある木棉の木が裂け、中から一行の詩が現れる。

樹根杳杳 禾刀木落
十八子成 東阿入地 木異再生
震宮見日 兌宮隱星
六七年間 天下太平

僧の萬行は、「十八子」とはすなわち「李」であり、黎氏が滅んで李氏による国は興るとの寓意が込められたものとした。萬行はその「李氏」こそ李公蘊であり、彼が英邁なる君主として即位すると推察した。李公蘊は臥朝帝に害されることを恐れ、萬行の手引きで蕉山に隠れた。一方、臥朝帝は詩の寓意を知って李姓の大臣を誅殺するものの、帝の信頼篤い李公蘊のみは免れることができた[4]

この事件ののち、李公蘊は皇位簒奪の野心を抱くようになる。[4]

李朝の建国[編集]

1009年、臥朝皇帝こと黎龍鋌は崩御する。皇太子・黎龍乍は10歳と幼く、臥朝帝の2人の弟・黎明昶黎明提(黎龍鍉)は皇位をめぐって争う。時に左親衛殿前指揮使に任じられていた李公蘊と右殿前指揮使の阮低はそれぞれ500の兵を率い、護衛の名目で宮中に侵入する。その折、家臣の祗候陶甘沐は李公蘊に対して即位を勧める。これを受けた李公蘊は「陰謀」とみなして2人を逮捕するものの、最終的にその意を受ける。陶甘沐と僧・萬行の策略の元で李公蘊は兵を率いて黎明昶黎明提を討って皇位を簒奪する。そして姓を黎から李に復し、李朝を興した[7]。翌年には元号順天とし、尊号を奉天至理応運自在聖明龍見睿文英武崇仁広孝天下太平欽明光宅章明萬邦顯應符感威震藩蠻睿謀神功聖治則天道政皇帝Phụng Thiên Chí Lý Ứng Vận Tự Tại Thánh Minh Long Hiện Duệ Văn Anh Vũ Sùng Nhân Quảng Hiếu Thiên Hạ Thái Bình Khâm Minh Quảng Trạch Chương Minh Vạn Bang Hiển Ứng Phù Cảm Uy Chấn Phiên Man Duệ Mưu Thần Trợ Thánh Trị Tắc Thiên Đạo Chính Hoàng Đế)。[7][9]父に顯慶王と追号し、生母を明德太后[4]とする。

在位期間の業績[編集]

昇龍(ハノイ)への遷都[編集]

李公蘊は即位後まもなく、都を山間部の華閭(ホアルー)から紅河デルタの大羅城に遷した。史書『大越史記全書』によれば、李公蘊が船で大羅城に至った折、忽然として船の傍らに黄龍が現れた。群臣はこれを大いなる吉兆とみなし、李公蘊は大羅城を昇龍(タンロン)と改名した。この昇龍こそ、現在に続くベトナムの首都・ハノイである。李公蘊は大規模な宮殿を築き、故郷の古法州を天德府、北江を天德江、古都・華閭は長安府と改名した。また天德府に宗廟を築いた。これこそ李八帝廟である[9]

內政改革[編集]

前黎朝の施行は暴虐なる軍事統治で刑法は残酷であり、民衆には不満が鬱積していた。李公蘊は即位後に前黎朝で用いられた残酷な処刑具や拷問具を焼却処分し、民心をつかんだ[9]

1013年には田地、山野、塩田、象牙や香料など各産物に関する税制を定めた[2][10]

外交政策[編集]

李公蘊は即位後に前黎朝の侵略政策を改め、外交には和平をもって当たった。黎臥朝帝によって俘虜にされたムオン族は解き放って故郷に返した[9]

1010年、李公蘊は北宋冊封の使者を送った。時の北宋皇帝・真宗は李公蘊を交趾郡王領静海節度使に封じた[9]。この後、李公蘊は幾度も北宋に使者を送った。1016年、李公蘊は北宋より南平王に封じられた[11]

軍事政策[編集]

前黎朝の時期、ベトナム全国は十道に分けられ、各道は兵を擁した武将に管理されていた。李公蘊は即位後に全国を二十四路に編成しなおし、路の下に等などの行政機構を設置した。これは中華世界の制度の模倣である。それぞれの「路」の長は、中央から派遣された文官である。また、ムオン族の居住地である愛州驩州(現在のゲアン省)には「寨」を設置し、「內地」とは異なる軍事統治を布いた[7]。これはムオン族が朝廷に反抗的だったためである。李公蘊はムオン族の反抗には容赦がなかった。1011年、李公蘊は兵を率いて莒隆におけるムオン族の乱を平定し、首領の首を挙げ、村を焼き払った[9]

このとき、李公蘊は各地に冊封した王子たちに長期間従軍させた。[2]

宗教政策[編集]

李公蘊は仏僧に教育を受けた関係で、仏教を篤く信仰していた。そして在位期間に仏教を奨励したことで、僧侶の社会的地位は高まった。李公蘊の即位に功のあった僧・萬行は国師として国政を掌握した。しかし、仏教奨励影響で、国政に参与しない僧までもが広大な封地を手にするようになる[7]

李公蘊が築いた都・昇龍の場外には多くの寺院が立ち並んだ[9]。官人は寺院に多額の布施を送り、大鐘を鋳造させた[9]。仏教の隆盛に伴い自ら剃髪するものが増えたため、1019年に李公蘊は全国の民衆に詔して、正式なる得度を定めた[11]。北宋に遣わされた使節は、その都度大量の三蔵教をもって帰国した[7]

崩御[編集]

1028年、李公蘊は昇龍の龍安殿にて崩御した。群臣たちはこぞって皇太子・李佛瑪の元を訪れて即位への準備を勧める。このとき、彼の三人の弟・東征王翊聖王武德王はそれぞれ兵を率いて慶福門に潜み、李佛瑪を刺殺するべく機会を伺っていた。ただし李佛瑪は祥符門より宮中に向かったため、幸運にも逃れることができた。のちに三王子の企みを知った李佛瑪は黎奉曉に命じて彼らを討ち、あるいは捕えさせた。かくて李佛瑪は李太宗(リ・タイトン)として即位した[12]

家族[編集]

  • 子女(六子十三女):
    • 子:
  1. 開天王 皇太子 李太宗 李佛瑪(またの名を名李徳政,黎氏佛銀の所生、後の李朝第2代皇帝)[10]
  2. 開國王 李菩[10]
  3. 東征王 李力[11][note 3]
  4. 翊聖王
  5. 武徳王
  6. 威明王李晃(李日㫕,黎氏佛銀の所生、『粵甸幽靈集』中の記載より)
    • 女:
  1. 安国公主(嫁義信侯陶甘沐[13]

(このほか、名は伝わらず)

後世の紀念[編集]

  • 李公蘊の興した李朝は、ベトナム史上最初の長期王朝であり、現在のベトナムにおいても尊崇されている。首都のハノイには「レ・タイト街」、「レ・タイト公園」、ハイズオン省ハイズオン市には「リ・コンウァン通り」がある。
  • 2010年、ベトナムではハノイ遷都1000年を記念して、中国との合作ドラマ「李公蘊・昇龍城への路」が制作された。
  • 2011年8月、ベトナムがロシアから購入したミサイル駆逐艦が、それぞれベトナムを中国から防衛した二大国王の名にちなんでLy Thai To (李太祖)、Dinh Tien Hoang (丁先皇=丁部領)と命名された。

脚注[編集]

  1. ^ 夢溪筆談·卷二十五·雜誌二』:「桓死,安南大亂,久無酋長。其後國人共立閩人李公蘊為主。」
  2. ^ 續資治通鑑長編·卷七十三』:「廣西轉運使何亮言:『交州黎至忠,苛虐不法,眾心離叛。其卒也,一子纔十歲,弟明提、明昶用兵爭立,大校李公蘊率土人逐而殺之。公蘊年始二十六,至忠最所親任,常令以黎為姓,既而自領州事,稱安南靜海軍權留後。且移文言見率方物奉貢,請降制命。』上曰:『至忠不義而得,公蘊尤而效之,益可惡也。』即詔亮安撫邊民,察視機事以聞。先是,至忠遣使貢奉,猶在京師,上令以其狀諭之,如欲行服亦聽,使人聞之,掩泣而已。(黎至忠卒,李公蘊殺其二弟,遂據交州。至忠未嘗被殺也。國史云公蘊遂圖至忠,又云至忠年纔二十六,皆誤,今但從實錄、會要及稽古錄。)」李公蘊が黎姓を賜った経緯は中国史書にわずかにあるが、ベトナムの史書には記されていない。
  3. ^ 『大越史記全書』の記録によれば、東征王翊聖王武徳王は反乱の折に李太宗の「兄弟」とされている。つまり李公蘊の子である。( → 『大越史記全書』216頁


引用[編集]

  1. ^ a b c d Template:Zh-hans 千年前泉州人李公蕴越南当皇帝 越南史上重要人物之一
  2. ^ a b c 『越南史略』第三卷第四章
  3. ^ a b c d 『大越史記全書』207頁
  4. ^ a b c d e f 『大越史記全書』202~203頁
  5. ^ Template:Zh-hans 两安海人曾是安南皇帝 有关专家考证李公蕴、陈日煚籍属晋江安海
  6. ^ Lynn Pan. The Encyclopedia of the Chinese Overseas. Harvard University Press. pp. 228. ISBN 0674252101. 
  7. ^ a b c d e f 『越南通史』、郭振鐸、張笑梅主編,第四編第九章第一節
  8. ^ a b 『大越史記全書』198頁
  9. ^ a b c d e f g h 『大越史記全書』208~209頁
  10. ^ a b c 『大越史記全書』210~211頁
  11. ^ a b c d e f 『大越史記全書』212~213頁
  12. ^ 『大越史記全書』216~217頁
  13. ^ a b 『大越史記全書』204頁
  14. ^ http://www.nomna.org/DVSKTT/dvsktt.php?IDcat=29

參考資料[編集]

外部リンク[編集]


先代:
李朝当主
初代:1010年 - 1028年
次代:
李仏瑪