長平公主

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長平公主(ちょうへいこうしゅ、1629年 - 1646年)は、皇族。明の最後の皇帝である崇禎帝の娘。

生母[1]は身分が低くしかも早世したため、周皇后に育てられた。明の滅亡時は17歳で、当時ならば結婚していてもおかしくない年齢であり、すでに周世顕と婚約していたが、崇禎帝は娘かわいさのあまり手許から離そうとせず、世顕との結婚は遅れていた。

李自成率いる軍が北京を攻撃すると、文武百官は皇帝を見捨てて逃亡し、北京は陥落した。崇禎帝は覚悟を決めて皇子を逃がし、妻妾と娘たちは自らの手で斬った。愛娘の長平公主の番になると、崇禎帝は悲しみのあまり「ああ、そなたはどうして皇帝の娘に生まれてしまったのか!」と泣いたという。彼女は「父上の娘に生まれて幸せでした」と答えて目を閉じ、刃を受けるのを待った。しかし、崇禎帝が涙で見えにくくなった目で刀を振るったため、急所はそれて公主は左腕に傷を負ったのみであった。このとき、皇帝に最後まで従っていた宦官王承恩が機転を利かして「公主様は果てられましたゆえ、遺体を始末いたします」と称し、官女に命じて密かに逃がすよう手配したという。また一説によると、翌日の朝、李自成は負傷した袁皇貴妃と長平公主を見て「主上はあまりに残忍な!」と嘆息した、という。長平公主は劉宗敏中国語版に引き渡され、李自成軍が敗走した後は周奎(周皇后の父)の家で過ごした。

のちに順治帝に庇護され、かねてからの婚約者だった周世顕と結婚した。だが長平公主自身は出家して隠棲することを望んでいたという。順治帝は長平公主を哀れみ、結婚と私生活のために土地や屋敷、金、車馬などを与えた。しかし、明の滅亡から2年後に死去した。このとき彼女は懐妊していたという。享年19。

民間伝説[編集]

民間伝説によれば、明の滅亡後に長平公主は尼になり、武芸を身につけ、「独臂神尼」と名乗って反清復明運動に参加し、呂四娘などを弟子としたというが、無論すべて虚構の話である。金庸の小説『碧血剣』の阿九、『鹿鼎記』の九難や、梁羽生の『江湖三女侠』の独臂神尼は、この伝説を元にしている。

参考文献[編集]

  • 明史』 - 列伝第九 公主伝
  • 『十八の子 李巌と李自成』(小前亮

脚注[編集]

  1. ^ 台湾の小説『明末春秋』によると、長平公主の母は妃王氏(元は信王時代の崇禎帝の選侍であった)が、根拠は不明である。