朱徽セ

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本来の表記は「朱徽媞」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

朱徽媞(しゅきせ、1628年 - 1646年)は、皇族長平公主(ちょうへいこうしゅ)に封じられた。

明の最後の皇帝である崇禎帝の娘。生母は身分の低くしかも早世したため、周皇后に育てられた。明の滅亡時は17歳であり、当時ならば結婚していてもおかしくない年齢であり、すでに周世顕と婚約していたが、崇禎帝は娘かわいさのあまり手許から離そうとせず、世顕との結婚は遅れていた。

李自成率いる軍が北京を攻撃すると、文武百官は皇帝を見捨てて逃亡し、北京は陥落した。崇禎帝は覚悟を決めて皇子を逃がし、妻妾と娘たちは自らの手で斬った。愛娘の徽媞の番になると、崇禎帝は悲しみのあまり「ああ、そなたはどうして皇帝の娘に生まれてしまったのか!」と泣いたという。彼女は「父上の娘に生まれて幸せでした」と答えて目を閉じ、刃を受けるのを待った。しかし、崇禎帝が涙で見えにくくなっている目で刀を振るったため、急所はそれて徽媞は左腕に傷を負ったのみであった。このとき、皇帝に最後まで従っていた宦官王承恩が機転を利かして「公主様は果てられましたゆえ、遺体を始末いたします」と語り、官女に命じて密かに逃がすように手配したという。

のちに順治帝に庇護され、かねてからの婚約者だった周世顕と結婚した。だが彼女自身は出家して隠棲することを望んでいたという。順治帝は彼女を哀れみ、結婚と私生活のために土地や屋敷、金、車馬などを与えた。だが明の滅亡から2年後に死去。このとき彼女は懐妊していたという。享年19。

民間伝説 [編集]

民間伝説によれば、明が滅亡したあと彼女は尼になり、武芸を身につけ、「獨臂神尼」と名乗り、反清復明運動に参加し、呂四娘などを弟子としたというが、無論すべて虚構の話である。金庸の小説碧血剣の阿九、鹿鼎記の九難や、梁羽生の「江湖三女侠」の獨臂神尼は、この伝説を元にしている。

参考文献[編集]

  • 明史』 - 列伝第九 公主伝
  • 『十八の子 李巌と李自成』(小前亮