本翁意伯

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本翁意伯(ほんおういはく)は、戦国時代浄土宗西山深草派鳥居忠吉の次男。

生涯[編集]

三河国松平氏徳川氏)の家臣・鳥居忠吉の次男として誕生。弟に鳥居元忠などがいる。

出家して総本山である、京都の河原町四条に在する誓願寺で修行した。大変な博学で、宗派の曼荼羅[1]の指導者として有名になった。その後岡崎城の近くの光善寺の住職をしていたが、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第6世の住職になった。

元亀3年(1572年)、正親町天皇勅願により二条城に参内して曼荼羅を講筵した。その礼に正親町天皇より授法山「上衍寺(じょうえんじ)」の勅額を賜る。また1593年徳川家康の異母妹・市場姫の葬儀を不退院で行い、その導師を勤めた。なお、永禄10年(1567年)9月29日に入没した荒川城(八ツ面城)主荒川義広の葬儀も導師として勤めていたことが、不退院の寺記に記されている。

不退院で死去。死後、不退院の住職は同族の鳥居忠春の親族が継いだ。

逸話[編集]

本翁意伯の弟である元忠が京都伏見城の戦いで、徳川家康の代わりに城を守り、壮絶な戦死をしている。その忠節は大久保忠教より「三河武士の鑑」と称された。家康は忠実な部下の死を悲しみ、嫡男・忠政に磐城平藩10万石を経て、山形藩24万石の大名に昇格させている。それを知った兄の本翁意伯は大変喜んだ。わざわざ山形藩まで出向くことを決意するが、高齢のために叶わず、弟子の頓翁意傳をかわりに行かせた。愛知の三河から山形藩までは、相当な距離である。そのことが記録として残っている。(鳥居元忠の功績を検証する研究会「鳥居会」[2]が東京に本部があり、全国規模で検証を続けている。そこに収集された古文書の中に、そのことが書かれている。)

脚注[編集]

  1. ^ 浄土曼荼羅を指す。
  2. ^ 鳥居元忠の功績を研究する会として、また鳥居一族の懇親の場として、鳥居元忠の直系の本家が会長となって運営している任意団体である。


外部リンク[編集]