本法寺 (京都市)
| 本法寺 | |
|---|---|
本堂 |
|
| 所在地 | 京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617 |
| 位置 | 北緯35度2分6.18秒 東経135度45分7.89秒 |
| 山号 | 叡昌山 |
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 寺格 | 本山 |
| 本尊 | 三宝尊 |
| 創建年 | 1436年(永享8年) |
| 開山 | 日親 |
| 開基 | 本阿弥清信 |
| 札所等 | 洛中法華21ヶ寺 |
| 文化財 | 紙本著色仏涅槃図(重要文化財)ほか |
本法寺(ほんぽうじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は叡昌山。塔頭が三院ある(尊陽院、教行院、教蔵院)。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 開山日親
法華行者として、強い信念をもつ日親は、1439年(永享11年)足利義教の屋敷へ赴き、庭中へ直訴し諌暁を図る。足利義教に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と説いたのである。驚いた幕府は諌暁を禁止する。それでも日親は諦めることなく、身命を賭けた諌暁書「立正治国論」を著したため怒りに触れ、寺を焼かれ投獄される。1441年(嘉吉元年)赤松満祐の謀反で足利義教が暗殺されたことで日親は赦免される。赦免後、獄中で知り合った本阿弥清信の帰依を受け、後に本阿弥家の菩提寺となる。1463年(寛正3年)地蔵ヶ原にて、焼いた鍋を頭に被せる酷刑を受け、後に「鍋かぶり日親」と称されている。
[編集] その他
桃山時代の絵師長谷川等伯は本法寺十世の日通と交友があり、塔頭教行院を宿としていた。このため、当寺には等伯の作品やゆかりの品が多数伝来している。
現住は96世瀬川日照貫首(柏市妙照寺より晋山)。親師法縁縁頭寺。
[編集] 歴史
本法寺は寺伝によれば1436年(永享8年)、日親が本阿弥清信の帰依を得て創建[1]。当初は東洞院綾小路(現・京都市下京区)にあった[2]。前述のとおり、日親は1440年(永享12年)足利義教の怒りを買い投獄されたが、翌年赦免された。日親は1463年(寛正3年)にも投獄され、寺は破却されたが、翌1464年(寛正4年)赦免され、寺は三条万里小路(さんじょうまでのこうじ、現在の中京区三条柳馬場)に再建された[3]。
1536年(天文5年)、本法寺は洛中の他の法華系寺院とともに天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本法寺は一条堀川に再建された。1587年(天正15年)豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。
寺は1788年(天明8年)、天明の大火により焼失したが、その後再建された。
[編集] 伽藍
[編集] 庭園
- 巴の庭(本阿弥光悦作庭)
- 十の庭
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財(国指定)
- 長谷川等伯関係資料
- 金銅宝塔
- 紙本墨画文殊寒山拾得像[4] 3幅(文殊:啓牧筆、寒山拾得:啓孫筆)
- 絹本著色蓮花図(伝銭舜挙筆)
- 絹本著色群介図
- 紫紙金字法華経(開結共)10巻
- 附:花唐草文螺鈿経箱
- 附:正月十三日本阿弥光悦寄進状
- 法華題目抄(本阿弥光悦筆)
- 如説修行抄(本阿弥光悦筆)
[編集] 名勝(国指定)
- 本法寺庭園
[編集] 京都府指定有形文化財
- 本堂
- 開山堂
- 多宝塔
- 仁王門
- 鐘楼
- 経蔵
- 庫裏
- 書院
- 大玄関
- 唐門
- 宝蔵
- 石橋
- 棟札十三枚
[編集] 京都市指定有形文化財
[編集] 所在地
京都府京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617
[編集] 交通アクセス
[編集] 脚注
- ^ 『日本歴史地名大系 京都市の地名』は創建の正確な年次は不明とする。また、日親と本阿弥清信は獄中で知り合ったとする資料もあり、この場合、両者が知り合うのは日親が投獄された1440年以降ということになる。
- ^ 創建時の寺地については資料によって「東洞院綾小路」とも「四条高倉」とも表記されるが、いずれもほぼ同じ場所を指し、現在の京都市下京区、地下鉄四条駅東方にあたる。
- ^ 『日本歴史地名大系 京都市の地名』による。寺のサイトでは三条万里小路に再建された年を長禄4年(1460年)としている。
- ^ 重要文化財指定名称は「紙本墨画中文殊左右寒山拾得像」。これは三幅対の中央が文殊図、左右が寒山図と拾得図であるという意味である。
[編集] 参考文献
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂出版、1984