本多忠篤

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本多忠篤
時代 江戸時代中期
生誕 享保4年(1719年
死没 延享4年8月20日1747年9月24日
官位 従五位下兵部少輔
伊勢神戸藩世嗣
氏族 本多氏(彦八郎家)
父母 本多忠統
兄弟 康桓小笠原信胤忠篤忠栄忠永、忠明、忠国、康政藤堂良由正室、
藤堂良端養女、松平信敏正室、本多忠英正室
甘露寺尚長
広橋兼広
忠興渡辺綱通正室
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本多 忠篤(ほんだ ただあつ)は、江戸時代中期の伊勢国神戸藩の世嗣。官位従五位下兵部少輔。正室は甘露寺尚長の娘、継室は広橋兼広の娘。子は本多忠興(長男)、渡辺綱通正室。

略歴[編集]

神戸藩初代藩主・本多忠統の三男として誕生した。

長兄の康桓は宗家である近江国膳所藩主・本多康敏の跡を継ぎ、次兄の小笠原信胤越前国勝山藩主・小笠原信成の養嗣子となったため、三男ながら神戸藩嫡子となる。元文2年(1737年徳川吉宗御目見し、従五位下、兵部少輔に叙任されたが、家督相続前の延享4年(1747年)に早世した。

代わって弟の忠永が嫡子となった。