木の脚作戦

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木の脚作戦
戦争:レバノン戦争後のテロによる報復
年月日:1985年10月1日
場所チュニジアの旗 チュニジアチュニス
結果:PLO本部への爆撃は成功
ヤーセル・アラファトの殺害には失敗。
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル パレスチナ解放機構
戦力
F-15 バズ8機 なし
損害
なし PLO本部 - 全損
PLO要員等 - 60以上

木の脚作戦(Operation Wooden Leg)は、1985年キプロスで発生したパレスチナ解放機構(PLO)によるイスラエル人に対するテロへの報復目的で、イスラエル空軍により同年10月1日に行なわれたチュニジアチュニスにあったPLO本部爆撃作戦の通称である。


作戦以前の経緯[編集]

詳細はレバノン内戦に詳しい。1970年ヨルダン内戦が発生し追放された事により、レバノンにパレスチナ難民が流入、レバノンは事実上この難民に対し政府同等の権限を与えた事により、レバノン南部にPLO主派ファタハの名前を捩った「ファタハ・ランド」と渾名される地域が成立、レバノンは事実上傀儡国家となってしまう。その際にファタハランド側は隣国イスラエルへ攻撃を仕掛けていたが、レバノン政府に為す術は無かった。その後、1975年にレバノン内戦が勃発、翌年にはシリアが参入するも、反シリア・パレスチナを標榜するレバノン軍団がシリアとの国境で交戦、1976年当時イスラエルと交わされていたレッドライン協定を無視してマロン派拠点の東ベイルートに砲撃を加える。これに対してイスラエル側が激怒し内戦に介入、レバノン軍団側を支援した際にシリア側ヘリコプターを撃墜し、リタニ側から南のレバノン南部を占領した事から一触即発となり、シリア側も地対空ミサイルを配備し対抗した。結局は1981年にアメリカの介入で事無きを得た。しかし、この出来事により協定は形骸化してしまう。

以上の様にイスラエル・マロン派連合、シリア、イスラム・PLO連合との間で緊張関係にあった上、PLOによる対イスラエル野砲攻撃が続けられており、これに業を煮やしたイスラエルは、翌1982年6月6日に発生した駐大使がPLOメンバーに狙撃されたテロ事件をきっかけに、レバノン軍団・アマルと手を組みレバノン国境を越境し、シリア軍及びイスラム・PLO連合に対し本格攻撃を行った(所謂「ガリラヤの平和作戦」または「レバノン戦争」)。イスラエル軍は事前に偵察飛行により、地対空ミサイルの位置を把握していた。これにより、F-16、F-15を投入し爆撃を行い、当時最新鋭のメルカバ戦車の投入により、ベイルートを占領していたシリア軍は壊滅し、PLOが篭城するベイルートを10週間包囲された。PLO側は主派を多数失った上で、本部を占領された事に加えて地元の長老らにより最後通牒を言い渡された。結果、レバノン戦争は8月21日に停戦し、8月30日ヤーセル・アラファート議長率いるPLOはレバノンから追放され、チュニジアチュニスへ本部を移した。

作戦の概要[編集]

PLO追放から約1ヵ月後の1985年9月25日キプロス共和国ラルナカ沖で、イスラエル人の乗船していたヨットがファタハのフォース17(現在もパレスチナ自治政府親衛隊として存続)と見られる部隊の襲撃を受け、乗船していたイスラエル人3名が殺害された。

この報が知れ渡ったイスラエル世論は激怒し、イスラエル空軍によるチュニスに移転したPLO本部への爆撃及びヤーセル・アラファトの殺害を決定した。当時イスラエル空軍にはF-16A/B ネッツ及びF-15A/B バズが配備されていたが、イスラエルからチュニスまでの距離は約2,300kmに及ぶこと、F-16が少数であったことから、航続距離の長いF-15を使用した。F-15はレバノン侵攻にも投入されており、通常は制空戦闘機として使用されるが、火器管制装置は対地攻撃モードを持ち各種誘導爆弾を搭載可能である(航空自衛隊のF-15Jでは無効化している)。

10機のF-15(このうち8機が爆装、2機は予備機)及びボーイング707空中給油機を作戦に投入した。10月1日午前7時、F-15全10機が離陸した。10機は地中海を経由し、途中イオニア海上空で待機していた空中給油機からの給油後、予備機2機を除く8機がチュニスへ向かった。 そして海辺から2機ずつで爆撃を実行した結果、PLO本部に壊滅的なダメージを与え、フォース17のリーダー数名を含む60名以上のPLO要員が死亡、民間人を含む多数が負傷したものの、その当時アラファトは外出していた為に難を逃れた。8機ともイスラエルへ帰還し、作戦成功と評価された。

その後[編集]

この爆撃に関しては奇襲攻撃であった事、チュニジアの領空を侵犯した上での国内攻撃であった為、国際法上の問題が発生、イスラエルは国際非難を受けることとなった。10月4日には国際連合安全保障理事会決議573が提出され、親イスラエルのアメリカ合衆国の棄権(当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンはこの爆撃事件を後に非難している)を除いて14票の賛成票により、非難決議が可決された。

その後もPLOとイスラエルとの対立自体は更に激化を強め、1987年第1次インティファーダまで発生したが、その後PLOは穏健化により1993年オスロ合意を経てパレスチナ自治政府が成立し、PLOの本部も自治政府成立と同時にパレスチナへと移転している。そして、この現実路線を快く思わないイスラムパレスチナのハマースが台頭し、現在に至っている。

関連項目[編集]