最上山辨治

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最上山 辨治(もがみやま べんじ、1841年天保12年〉 - 1874年明治7年〉7月22日)は、出羽国最上郡(現在の山形県新庄市[1]出身で若松部屋秀ノ山部屋に所属した元力士

本名は武田とのみ伝わっている。身長・体重は不明。

最高位は西前頭5枚目。

1860年10月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1870年4月場所で、西十両8枚目(十枚目格)に昇進。1873年4月場所で、新入幕を果たしたが、この場所後体調を崩し、現在の愛知県一宮市で療養に努めた[2]。しかし、体調は回復することなく翌1874年7月22日に、同地で死去[2]。34歳没。

幕内通算 3場所 4勝3敗2分21休の成績を残した(うち最後の2場所は全休〈20休〉)[1]

改名歴は3回ある:最上川→最上山→伊勢ヶ嶽→最上山 辨治。

出典[編集]

  1. ^ a b http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3443&l=j
  2. ^ a b 古今大相撲事典(ISBN-13: 978-4336018786)

関連項目[編集]