書堂

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書堂
Danwon-Seodang.jpg
金弘道檀園風俗図帖』(1780年頃)
各種表記
ハングル 서당
漢字 書堂
発音 ソダン
日本語読み: しょどう
ローマ字 Seodang
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書堂(ソダン、しょどう)は朝鮮王朝時代の私塾のことである。日本で言う寺子屋に相当する。

概要[編集]

書堂は李氏朝鮮時代における初等教育を担い、日本の寺子屋にほぼ相当するが、その実態は大きく異なる。明治時代以前の日本と較べて強いて言うなら地方支配階級である武士(藩士)の子弟が通う藩校の縮小版のようなものである。日本では、主に武士階級以外の一般農民や町民が通った寺子屋では「読み書きソロバン」や場所によっては他の学問(医学や蘭語や天文学、数学)も教えたが、朝鮮の書堂では科目は漢籍の訓読、詩文、習字だけであった。

書堂は大まかに分けて、先生が自分で私塾を営み近隣の子供らを教育する訓長自営、両班などの資産家が単独でコストを負担して先生を招き、主に自身の子や親戚を教育する有志独営、町の有志が共同でコストを負担して先生を招く有志組合、村全体でコストを負担して先生を招く村組合の4種に分けられる。

ある程度の規模になると先生が全員の生徒を直接指導することができないため、よくできる生徒が代わりに下の生徒の面倒を見ることになり、生徒が先生より影響力を持つ書堂もあった。地方の村に設置された書堂は規模が小さく、先生が詩文を知らない場合も多かった。特に朝鮮時代後期には食い詰めた学者崩れがやっている書堂も多く、先生の質が低かった。

書堂では漢籍の素読や習字が行われ、儒教の中でも朱子学が特に学ばれた。教科書としては「千字文」「童蒙先習」などが用いられた。一冊の本をすべて学び終わった時には、チェクゴリ(冊礼)が行われた。(現在もチェクゴリは一般的に行われている。)書堂で四書五経まで学び、郷校と四学(地方と漢城にあった国立学校)成均館の入学に備えた。

書堂とは元々両班の自宅の書斎のことで、自宅に家庭教師を住まわせて一族の子弟を教育させたものである。授業料は決まっておらず、家庭教師(訓長)の生活の面倒を父兄がみたり穀物で支払いする場合が多かった。

歴史[編集]

起源は高麗時代に遡ることができる。

朝鮮王朝初期には奨励策が取られ、孝宗10年(1659年)に成均館の祭酒(大学長)の宋浚吉によって、書堂を各村に均等に置き、成績優秀者には官職を与えるなどの命令が出されたが、李氏朝鮮時代は強固な官尊民卑思想があり、庶民教育が軽視されたので、書堂は王朝後期にかけて衰退していった。

開国後の1883年から日韓併合直前の1908年にかけて約5000校の書堂が設立された。当初、初等教育機関(普通学校)の数が十分でなかったため増加をみたが、初等教育機関の普及とともに減少していった。日本統治時代になっても書堂は存続し、日本式の初等教育と対立した。1918年以降は朝鮮総督府が義務教育制度を強化し、寺子屋のように自然消滅して近代学校制度への転換が進むことを期待したが、日本統治時代末期になっても約3000校が存在した。

独立後は、漢文教養講座、技術学校、学習塾としての道を歩んだ書堂の他は全て消滅し、近代学校制度に一本化された。

関連項目[編集]