暗黒舞踏

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山海塾(グアナフアト国際セルバンテス祭、2006年)

暗黒舞踏(あんこくぶとう)は、土方巽らを中心に形成された前衛舞踊の様式で、前衛芸術の一つ。日本国外ではButoh(ブトー)と呼ばれ、日本独自の伝統と前衛舞踊を混合したダンスのスタイルとして認知されている。

概要[編集]

著名舞踏家には、大野一雄土方巽らがいる[1]

1960年代から暗黒舞踏ハイレッド・センター(1963年結成)が舞台芸術などを手掛けるなど、他の前衛グループとのコラボレーションもさかんに行われた[2]。1966年7月に「暗黒舞踏派解散公演」を行い、暗黒舞踏派は解散した。しかし土方一派の舞踊活動自体は1966年以降も途切れることなく続いた。舞踊界への「反逆」ともいえる試みは、話題を呼び澁澤龍彦瀧口修造埴谷雄高三島由紀夫らの作家は暗黒舞踏に魅了された。だが、正統的な舞踊界からは異端視・蔑視され、”剃髪、白塗り、裸体、日本の突然変異ダンス、テクニックのない素人の情念の踊り”などと批判される場合もあった。

1970年代より欧州ではカルロッタ池田[3]室伏鴻らが独自に活動をすすめ、のち白桃房大野一雄らの招聘公演の基盤となり、以後、欧州で認知されるようになった。

1980年代に入ると、天児牛大が率いる山海塾のワールドツアーが大きな成功を収めるなど、舞踏は世界的な広がりにおいて注目を浴びた。テレビの深夜番組『11PM』や、サブカルチャー雑誌、男性向けの各種週刊誌で山海塾や白虎社などが紹介され、再度一般的な認知度が高くなった。日本での評価は、逆輸入的な一面がある。舞踏は1986年に土方巽が没した後も発展を続けた。

2022年K's cinemaで開催される「東京ドキュメンタリー映画祭2022」で12月14日『暗黒舞踏の世界』が上映される[4]

詳細・定義・思想[編集]

暗黒舞踏の定義は、美/醜、西欧近代/土着・前近代、形式/情念などといった対において、後者のなかにこそ見いだせる倒錯した美を追求する踊り、とも言える。跳躍そのほかのテクニックにより天上界を志向するクラシックバレエなどとは異なり、床や地面へのこだわり、蟹股、低く曲げた腰などによって下界を志向する[5]。一般に剃髪、白塗りのイメージが強い。裸体の上から全身白塗りする事が多いが、白塗りは必須ではない。舞踏の思想は、日本人の身体性へのこだわり、神楽、能、歌舞伎などの伝統芸能や土着性への回帰、中心と周辺の視座による西欧近代の超克など様々な切り口で語られる。


言語だけではなく絵画やオブジェなどから着想を得た作品もある。土方巽は特にフランシス・ベーコンアンリ・ミショーの絵画から着想を得ることを好んだという。その核心部分の一部は、現在のコンテンポラリーダンスに引き継がれている[6]

  • 「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)
  • 「ただ身体を使おうというわけにはいかないんですよ。身体には身体の命があるでしょ。心だって持っている」(土方巽)

歴史[編集]

暗黒舞踏の成立に大きな影響を与えたドイツの表現主義ダンスがある。『マリー・ウィグマン舞踊学校』[7]に留学した江口隆哉宮操子夫妻が帰国後『江口・宮舞踊研究』を設立し、そこに入所したのが大野一雄である。やがて独立した大野に強い影響を受けた土方巽[8]がそれを「暗黒舞踏」として完成させた。また、若き日の土方巽は前衛芸術集団「ネオ・ダダ」の中心人物・吉村益信の新宿百人町のアトリエ兼住居(新宿ホワイトハウス)に出入りしていたといわれ[9]、暗黒舞踏の成立にもその影響が見られる。

暗黒舞踏の舞踏家
土方巽大野一雄伊藤ミカ石井満隆麿赤兒笠井叡白桃房和栗由紀夫大駱駝艦三上賀代五井輝川村浪子[10]堀川久子[11]岩名雅紀など
叛乱体~衰弱体、土方巽直系の様式美。大野一雄笠井叡は土方とは異なる領域を切り開いた。
「とりふね舞踏舎」の三上賀代は、『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』(1991年出版、お茶の水女子大学修士論文)において、土方巽との稽古の現場から採取した「稽古ノート」を元に土方舞踏を解説した。
山海塾白虎社など
舞踏と現代舞踊を融合
勅使川原三郎、佐東利穂子、伊藤キム河野なつ子白井剛鈴木ユキオ浅井信好ささらほうさらなど舞踏を消化吸収したコンテンポラリーダンサー

海外[編集]

SU-ENリチャード・ハートなど、舞踏第一世代の様式美を受け継いだ者や第二世代の影響下にある舞踏家たちが存在する。

主な舞踏集団[編集]

主な舞踏家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Butoh”. 2020年4月16日閲覧。
  2. ^ ハイレッドセンター” (PDF). 2022年11月28日閲覧。
  3. ^ アリアドーネの会を主催。裸体で踊ることもあった
  4. ^ 暗黒舞踏の世界”. 東京ドキュメンタリー映画祭2022. 2022年11月28日閲覧。
  5. ^ 市川雅「舞踏」『別冊太陽 現代演劇60'S~90'S』平凡社
  6. ^ 脚注解説:80年代前後のコンテポラリーダンスの世界は、圧倒的にアメリカのポストモダン・ダンスの強い影響下にあった。若いダンサーはマース・カニンガムのスタジオに行って、そこで数カ月、数年間を過ごして、フランスに戻ってくる。ヌーベル・ダンスの最初の世代の人たちはその道を選んだ人たちが多かった。それに対するアンチテーゼ、もしくは正反対のモデルとして日本は出てきた。80年代に入ってからヌーベル・ダンスに舞踏やドイツのダンスシアターの影響が見られるのも、偶然ではないでしょう。(東京大学教授パトリック・ドゥ・ヴォス)大駱駝艦がであうブラジル、世界がであう舞踏 | をちこちMagazine
  7. ^ [1]
  8. ^ 石井輝男の東映映画に請われて出演したこともある
  9. ^ 解説脚注:ホワイトハウスでは夜な夜な深夜からパーティーをやっていたんです。要するに新宿でごろごろしているアーチストと自称しているヤツらで、誰も作品をつくっていない。そういう連中が集まっていたわけですね。その中には、例えば土方巽とか、いずれは唐十郎もかかわってくる。(磯崎新)「INAX REPORT NO167」(2006年7月号)19ページより
  10. ^ 舞台上で裸体で歩き続ける舞踏家
  11. ^ 美学校に通った後に、田中みんとも共同作業をおこなった。欧州で活動したあと、新潟県を拠点とする舞踏家

映像[編集]

  • CD-ROM付書籍「土方巽の舞踏―肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー」(川崎市岡本太郎美術館/慶應義塾大学アートセンター・編集)2003、慶應義塾大学出版会
  • DVD「土方巽 夏の嵐:燔犠大踏鑑」(荒井美三雄・監督)2004、Image Forum & aguerreo Press,Inc
  • CD-ROM「舞踏花伝」1998、ジャストシステム
  • DVD「舞踏花伝」2006、ヌーサイト

和書[編集]

学習用書籍であり、出典ではない。

  • 土方巽・著「犬の静脈に嫉妬することから」1976年、湯川書房
  • 土方巽・著「病める舞姫」1983年、白水社(新版 白水Uブックス 1992年)
  • 土方巽・著「美貌の青空」1987年、筑摩書房
  • 土方巽・著「土方巽全集」1998年、普及版2005年、河出書房新社 
  • 土方巽/吉増剛造・著「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」1992、書肆山田
  • 大野一雄・著「稽古の言葉」1997、フィルムアート社
  • 大野一雄・著「御殿空を飛ぶ」1998、思潮社
  • 大野一雄・著「魂の糧」 1999、フィルムアート社
  • 大野一雄・著「百年の舞踏」2007、フィルムアート社
  • 大野慶人・監修「秘する肉体 大野一雄の世界」2006、クレオ
  • 三上賀代・著「器としての身體-土方巽暗黒舞踏技法へのアプローチ」1993、ANZ堂 


関連項目[編集]

外部リンク[編集]