明智秀満

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明智 秀満
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文5年(1536年)?
死没 天正10年6月15日1582年7月4日
改名 三宅弥平次→明智秀満
別名 光遠、光春、秀俊、光俊、光昌、通称左馬助
主君 明智光秀
氏族 三宅氏明智氏
父母 複数説あり。「出自」参照
正室:明智光秀の娘

明智 秀満(あけち ひでみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田家家臣の明智光秀の重臣。

名称[編集]

同時代史料に出る実名は秀満。当初は三宅弥平次と称し、後には明智弥平次とも名乗っている[1]。俗伝として明智光春や満春の名でも知られる[2]左馬助(左馬之助)の通称でも有名[3]。俗伝では幼名は岩千代、改名して光俊とも[4]。その他、複数の別名が流布している。

出自[編集]

三宅氏説[編集]

秀満は当初、三宅氏(三宅弥平次)と名乗っていた。三宅氏は明智光秀の家臣として複数の名前が確認できる。また俗伝では、明智光秀の叔父とされる明智光廉が三宅氏を名乗ったとも言われる。一説には父の名を三宅出雲、あるいは美濃の塗師の子、備前児島郡常山の国人・三宅徳置の子という説もある。

明智氏説[編集]

明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

遠山氏説[編集]

明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀3年(1572年上村合戦で戦死しているが、この説によると史料の不整合もあり誤伝であるという。

また遠山景行の妻が三河国広瀬城三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。

生涯[編集]

福知山城
坂本城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」)
明智左馬助湖水渡りの碑(滋賀県大津市打出浜)

前半生[編集]

秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっている。それらは秀満の出自を明智氏と断じていることに留意する必要がある。

明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年斎藤道三斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

後半生[編集]

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている[5]。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた[5]。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った[5]

秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した[6]

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる[6][7]享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

異説[編集]

明智光秀を江戸初期の政僧・天海の前身とする説は有名だが、秀満こそ天海大僧正とする説がある。もしくは光秀と2代で天海であったともされる。天海の出自は奥州蘆名氏であるとされるが、使用した家紋が遠山氏と三宅氏の家紋(丸に二引両と三宅輪宝)と同じであるため、上記の遠山景玄が天海にまでなったという説もある。「丸に二引き両紋」と「三宅輪宝紋」は今日においても喜多院あるいは上野の輪王殿両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる。

坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)には、秀満が僧衣に着替えたという伝承があり、天台真盛宗本山の西教寺には、その鞍が置かれている。当初は、鎧兜(現在、東京国立博物館所蔵[1])や陣羽織も西教寺に保管されていたという。

秀満の遺児が後に細川家に仕え、三宅重利を称したとも言われている。秀満の庶子、太郎五郎が、幕末に活躍した坂本龍馬の先祖であるという説がある。秀満(光春)の嫡系として宮城氏があるとする史料が存在し、それには彼の事績の他、近親の詳細なプロフィールが掲載されている。

逸話[編集]

光秀が本能寺の変を計画した際に秀満に実行すべきか否かを質問した逸話が『備前老人物語』に伝わる。同書によると光秀は信長を討つ事を迷い、秀満を呼び寄せて相談した[8]。秀満は「殿の上(信長)様へのお恨みはさもありなんと思います。しかし気持ちを穏やかにお持ち頂ければ、遺恨も無くなりましょう。都に近い丹波と、近江の坂本を拝領なされ、上様からは過分の取り立てを受け、冥加にかなうところでございます。少しの恨みを思い捨てないで逆心を抱けば、天命の尽きる事明白です。どうか思いとどまり下さい」と諌めた。光秀はその諫言を受け入れてひとまずその日は過ぎた。ところが翌日に光秀は家老斎藤利三溝尾茂朝明智次郎左衛門藤田行政らに信長討伐の是非を尋ねていた。だが4人とも秀満と同じ意見を述べて反対する。そして秀満を呼び「昨日申した事、年寄どもに密かに相談したが、その意見、皆そなたと同じであった。それゆえ思いとどまる事にした。左様心得よ」と答えた。だが秀満は顔をしかめて声を荒げながら「それがし1人の口なら如何様にもなりましょう。ですが年寄4人に打ち明けたとなれば、その口を止めるのは難しくございます。殿が上様を恨まれるように、かの年寄らがもしも殿をお恨みに申す事ができた時、天罰は逃れられません。それが是であれ非であれ、思い通りに事をなしましょう。明日に移せば一大事になりましょう」と告げた。秀満はこれほどの秘密を年寄にまで漏らした光秀の軽率がいずれ信長にも知られて禍になるから立ち上がるしかないと述べたのである。なお、同書ではこの話は事変の前日に行なわれ、秀満が決起の手立てを定め、光秀は秀満に背中を押される形で本能寺襲撃を決意したと伝わっている[9]

安土城退去の際、秀満軍が天主や本丸に放火したとされてきた。しかし、秀満は坂本城を包囲された際、多くの文化財を堀秀政に明け渡した後、光秀の妻子を殺害し、城に火を放って自害しているため、安土城に放火したとは考えにくいと反論があるが定かではない。なお、後世に天下の名物を残した見識は賞賛されている[6]

琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。この逸話に関して詳しく述べると、光秀の敗死を知った秀満は坂本に引き揚げようとしたが、大津の打出の浜で敵に遭遇した。窮地に陥った秀満は突然、琵琶湖に馬を引き入れると浮いたり沈んだりして泳がせ、自分は馬の尻の所に下がって手縄を鞍の後輪に取り付けて、湖水を渡った。敵が唖然とする中、こうして秀満は坂本に帰り着いたという[10]

坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいた[10]。秀満は長兵衛と知己があり「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。長兵衛は「何事であろう」と尋ねると「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである」と述べた。そして「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた(『武家事紀』)。秀満は今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと言いたかったのである[7]。そして秀満は話を聞いてくれた選別として黄金300両の入った革袋を投げ与えた[7]。秀満の死後、長兵衛は武士を辞めてもらった黄金で商人となって財を成したと伝わる[7]

光秀が津田宗及を招いて茶会を2度ほど催しているが、その際に饗応役を務めており、文化人としての知識もあったようである(『宗及記』)。

佩用していたとされるが、「明智拵」として現在に伝わっている。刀身は無銘であり簡素な拵ながらこの時代の実用の打刀様式を伝える数少ない品として、貴重な歴史資料とされている(東京国立博物館蔵)。

明智秀満を題材とした創作[編集]

小説[編集]

映画[編集]

ゲーム[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 同時代史料である『天王寺屋会記』などに見られる。江戸時代の軍記『明智軍記』では、「三宅弥平次」は彼の別号・初名とされている。また彼の死の直後に編纂された『惟任退治記』では「明智弥平次光遠」とある。
  2. ^ 『明智軍記』など後世の編纂物にしか登場しない名前であるが、江戸期以降の史料や創作物の多くでこの名前が使われている。
  3. ^ 『信長公記』『川角太閤記』などでは、「弥平次」に代わって使用されている。江戸期以降では、三宅弥平次から明智左馬助に改名したとされることが多い。
  4. ^ いずれも『明智氏一族宮城家相伝系図書」による。
  5. ^ a b c 楠戸義昭『戦国武将名言録』P94
  6. ^ a b c 楠戸義昭『戦国武将名言録』P95
  7. ^ a b c d 楠戸義昭『戦国武将名言録』P365
  8. ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P208
  9. ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P209
  10. ^ a b 楠戸義昭『戦国武将名言録』P364

関連項目[編集]

参考文献[編集]

書籍
史料
  • 『川角太閤記』
  • 『武家事紀』
  • 『備前老人物語』

外部リンク[編集]