明智光春

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明智 光春(あけち みつはる、天文6年(1537年)? - 天正10年(1582年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将明智光秀の家臣。明智光安の子。幼名は岩千代。通称・左馬助、改名して光俊とも。『明智軍記』などの物語にのみ登場する人物。

目次

[編集] 略歴

明智嫡流だった光秀の後見として長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年斎藤道三斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、光春は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

光秀が織田信長に仕えると、光秀に従って各地を転戦し武功を立てて丹波国に5万石を与えられた。光秀の次女は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたが、村重謀反の際に離縁され、光春に再嫁したという。

天正10年(1582年)に光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。その後安土城の守備につくが、織田信雄に攻められ落城、城は焼け落ちた。羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗死すると坂本城に移って自害したとされる。

琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。

佩用していたとされるが、「明智拵」として現在に伝わっている。刀身は無銘であり簡素な拵ながらこの時代の実用の打刀様式を伝える数少ない品として、貴重な歴史資料とされている(東京国立博物館蔵)。

[編集] 人物

光春は、『明智軍記』などの物語にのみ登場する人物であり、誰かをモデルに作られた可能性はあるが、実在の人物かは定かではない。

明智光秀の従弟として記されるが、史料上「光春」の名乗りは確認されておらず、史料上確かな明智秀満と物語が混淆して成立した人物とする説がある。

[編集] 一族

『明智一族宮城家相伝系図書』より

[編集] 関連項目

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