日本電波映画

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日本電波映画株式会社
Nippon Denpa Eiga Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場/解散消滅
略称 日本電映
本社所在地 日本の旗 日本
616-8167
京都市右京区太秦多藪町[1]
設立 1959年7月
業種 サービス業
事業内容 映画テレビ映画の製作
代表者 松本常保
主要株主 松本常保
特記事項:略歴
1959年7月 日本電波映画株式会社設立
1962年4月 日本電波映画撮影所開所
1967年 撮影所閉鎖
会社解散
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日本電波映画株式会社(にほんでんぱえいが)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。京都市内亀岡市内撮影所を開設、稼動した[1]

データ[編集]

本社

北緯35度00分48.01秒 東経135度42分14.05秒 / 北緯35.0133361度 東経135.7039028度 / 35.0133361; 135.7039028

日本電波映画撮影所

北緯35度00分43.27秒 東経135度42分41.44秒 / 北緯35.0120194度 東経135.7115111度 / 35.0120194; 135.7115111

日本電波映画第二撮影所

略歴・概要[編集]

松本常保が1948年(昭和23年)、京都市右京区太秦多藪町えくらん社(のちのエクラン社、2007年解散)を設立、映画製作および芸能プロダクション業務を開始[1]、1959年(昭和34年)7月、同地に設立したテレビ映画・映画製作会社が「日本電波映画株式会社」である[1]

1960年(昭和35年)12月31日、読売テレビで放送を開始した『琴姫七変化』が設立第1作で、戦前からキャリアのあるヴェテラン監督久見田喬二が「組田秋造」名義で監督した[1]。同作の放映期間中の1962年(昭和37年)4月、本社から東へ500メートル離れた太秦井戸ヶ尻町に撮影所を建設・開所、日本電波映画撮影所とした[1]。同作は、同年末の12月29日に放送を終了するまで、新撮影所で撮影した。

ヒット映画『明治天皇と日露大戦争』(1957年)で知られる映画監督渡辺邦男を招き、1965年(昭和40年)のテレビドラマ『人生劇場』の監修を皮切りに、同年には渡辺監督の『明治の風雪 柔旋風』(配給は松竹)で映画製作に乗り出す。当時はヒットが続き、一時は亀岡に「日本電波映画第二撮影所」を開設したが。渡辺作品などへの過剰投資が仇となり、『明治天皇と日露大戦争』を元にした、大作ドラマ『明治天皇』(1966、1967年)さえも打ち切られ、1967年(昭和42年)に不渡りを出し[2]、井戸ヶ尻町の撮影所も閉鎖された[1]。 尚、当社の製作部長であった国広鷹夫は、俳優 国広富之の実父である。

撮影所を手放した後も「大和企画」名義でテレビ映画『白獅子仮面』(1973年)を製作した[3]。『白獅子仮面』以降のテレビ映画製作の記録はなく、社長の松本はその後も映画を製作したが、「日本電波映画株式会社」の活動および解散時期については不明である[5]

フィルモグラフィ[編集]

未制作作品
  • 『S・Fモンスター作戦』(1965年 - )
    特殊造形家の大橋史典を中心とした番組企画[4]。SF作家の筒井康隆眉村卓が5本ずつシノプシスを執筆[6]
  • 『白蘭部隊 出動』
    パイロット版(第1話のみ製作)、主演は琴姫七変化、月姫峠の松山容子、月姫峠のDVDBOXに収録。

[編集]

  1. ^ a b c d e f g 「日本電波映画撮影所」、立命館大学公式サイト(#外部リンク欄)、2009年10月7日閲覧。二重リンクを省く。
  2. ^ 『実録 テレビ時代劇史』野村庸一、東京新聞出版局、1991年1月、123-125頁。ISBN 4-808-30654-9 
  3. ^ 不渡りを出した後に放送された『アゴン』及び『ジャングルプリンス』はそれ以前に製作され「お蔵入り」の状態だった。
  4. ^ a b 竹書房/イオン編 編「Bonus Column 知る人ぞ知る…日本電波映画」『超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み』竹書房、1995年11月30日、56頁。ISBN 4-88475-874-9。C0076。 
  5. ^ 『超人画報』(1995年)では、「現・大和新社」と記載している[4]
  6. ^ 筒井康隆『筒井康隆、自作を語る』ハヤカワ文庫JA、2020年、p.279

外部リンク[編集]