日本現代企画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本現代企画(にほんげんだいきかく)は、1970年から1977年まで日本東京都狛江市を拠点に活動した特撮映像テレビ番組の製作会社。『スーパーロボット レッドバロン』をはじめとした『バロンシリーズ』を手がけたことで知られる。

円谷特技プロダクション[編集]

会社設立の背景はスタッフが所属していた円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)でのテレビ映画マイティジャック』(1968年(昭和43年)4月6日から同年6月29日)の失敗と赤字だった[1]東宝の子会社として設立された円谷特技プロダクションには自社スタジオ設備がなかった。番組制作の撮影設備や撮影機材のほとんどを親会社東宝からの貸与で賄った。この貸与費用負担は、円谷特技プロの重荷となっていた。

この状況を打開しようと、円谷特技プロダクション社長円谷一は自前の撮影ステージを所有しようと画策し、土地を探した。照明技師の小林哲也が砧地区に物件を見つけたが、この土地購入する資金が賄えなかった。『マイティジャック』以降、怪獣ブームが去った後の円谷特技プロの経営は悪化の一方で、結局自社スタジオの設立構想を断念せざるを得なくなった。

小林は東急映画出身で『ウルトラQ』で照明技師として「円谷特技プロダクション」に招かれて活動していた。1969年3月の『怪奇大作戦』終了以降、円谷プロダクションとしての番組制作はほぼ途絶えてしまい、多くの技術者との契約を解除するリストラ断行をおこなった。このタイミングで、円谷一らの後押しを受けて、小林を中心としたグループで新しい映像技術者集団をつくり法人化した。これが日本現代企画である。

日本現代企画[編集]

「日本現代企画」の名称は円谷プロダクションの熊谷健による[2]。当初は「現代企画」と提案されたが、既に同名企業が存在していたため冒頭に「日本」を加えた[2]。当初は、照明機材の貸し出し、TBSの「映画部」へのスタッフの人材派遣、などで業務を始動した。小林らは「円谷特技プロダクション」の弱点だった「設備面の充実」を図った。参画者が共同出資することで、以前取得できなかった砧地区に至近の狛江市の土地70坪を取得し、特撮用ステージを三棟建造した。鉄筋コンクリートのスタジオは照明技師である小林自身の設計によるもの。照明効果を存分に考慮したデザインが採られた。自前のスタジオ設備や撮影機材は「映画スタジオ」として貸出しし、一方でテレビ番組制作の準備を整えた。

テレビドラマ制作としては1971年の『シルバー仮面』が最初である。「タケダアワー」の中核スタッフであったTBSの橋本洋二プロデューサー、宣弘社の小林利雄社長、前年にTBSを退社した実相寺昭雄監督という円谷特技プロダクションの時代からの人脈から担ったものだった。この実質的な制作は「コダイグループ」がおこなった。『シルバー仮面』で演出スタッフとして参加し「製作協力」とクレジットされている。コダイグループは、同じ元円谷特技プロのスタッフによって結成された実相寺昭雄が設立した映像制作集団であり、「コダイグループ」という名も「日本現代企画」の「現代」に対比して実相寺が「古代=コダイ」と名付けたものだった。

「東洋現像所(現IMAGICA)」の電子映像技術「スキャニメイト」を積極的に導入しテレビでの特撮に多用した[1]スーパーロボット マッハバロン(1974年10月-1975年3月)、少年探偵団 (BD7)(1975年10月-1976年3月)などが代表である。

会社解散後、鈴木清を中心に同社スタッフが結集し「創英舎」を設立した[1]。「バロンシリーズ」の第3作『小さなスーパーマン ガンバロン』は創英舎の製作となったが「日本現代企画」の名が残されている。

歴史[編集]

主なスタッフ[編集]

小林哲也
代表取締役社長[3]円谷特技プロダクションで照明技師を務めていたが、照明機材が入手困難であったことから自ら機材を調達し、上田とともに他社への貸出事業を行っていた[4]。この時の売り上げが日本現代企画設立時の資本金となった[5]
上田利夫
専務[6]。『マッハバロン』ではプロデューサーを務めた[7]
元々は東京美術センターに所属していたが、小林とともに照明機材の貸出事業を始める[7]。日本現代企画解散後は創英舎代表となった[7]
中野稔
佐川和夫
高野宏一
鈴木清
大木淳吉

フィルモグラフィ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 竹書房/イオン編 編「Column 日本現代企画、沿革とその資質」『超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み』竹書房、1995年11月30日、120頁。ISBN 4-88475-874-9。C0076。 
  2. ^ a b アイアンキングフォトニクル 2015, p. 55
  3. ^ アイアンキングフォトニクル 2015, p. 48
  4. ^ アイアンキングフォトニクル 2015, pp. 48–49.
  5. ^ アイアンキングフォトニクル 2015, p. 54
  6. ^ アイアンキングフォトニクル 2015, pp. 49、54.
  7. ^ a b c アイアンキングフォトニクル 2015, p. 49

関連書籍[編集]

外部リンク[編集]