日本の電車史

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日本の電車史(にほんのでんしゃし)では、日本の鉄道における電車の発達過程について記す。

概要[編集]

日本で初めて営業運転された電車の車両。平安神宮の創建と同じ明治28年に、京都市内で運行されたことから、平安神宮神苑に安置されている。

世界的には多くの国が、路面電車や地下鉄などの都市内鉄道を除き、旅客列車貨物列車ともに、動力集中方式と呼ばれる、機関車客車貨車によって構成された動力機関を一箇所にまとめた方式の列車を運行している。これに対し近年の日本は旅客列車において動力分散方式と呼ばれる、電車気動車などといった動力装置を編成中の複数車両に分散させた形態の列車が主流になっている、世界的に見ても稀有な国で、電車大国と呼ばれることがある(日本以外の鉄道で、動力分散方式が主流になっている国にイタリアがある)。

日本で動力分散方式が発展した背景には、以下のような要因があったとされる。

  1. 運転密度を高くすることが求められ、都市部で駅を拡張しようにも土地の入手が困難なことから、折り返し時に機関車を前後に付け替えるために必要な機回し線などの用地が不要となり、入換えの手間がかからない、運転台が列車編成の両端についた電車や気動車が必要となった。また、すでに自動連結器化がされていたため、ヨーロッパなどで普及している動力集中方式での推進運転(プッシュプル)には適さなかった。
  2. 地盤が弱く軌道の負担力が小さいため、重量の重い機関車方式を使った列車の高速化や輸送力向上が難しかった。
  3. 駅間距離が短い区間が多く、曲線・勾配による速度制限区間も多いため、客車列車よりも加減速性能に優れた電車・気動車列車の方が好まれた。
  4. 電車は運用形態から、旧来車両との互換性を無視して編成単位でシステムチェンジがしやすいため、高性能化などの技術革新を採り入れやすい(実際には総括制御である事から制御信号読替装置・ブレーキ指令切替装置による異システム間の連結も割合たやすく、多くの大手私鉄に見られる)。

日本の国鉄でも中長距離列車について昭和時代中期(1960年代ごろ)までは電化路線でも他の国と同様、機関車方式が主流であった(日本の私鉄の電化路線ではほとんどが当初から電車を使用していた)。

また、貨物列車は現在に至るまで日本でもほとんどが動力集中方式である。(電車を用いた例外に、近年に登場した日本貨物鉄道(JR貨物)の「スーパーレールカーゴ」がある。かつては電化私鉄の一部において車両1両分で事足りる程度の貨物輸送に存在していた)。長編成の場合動力集中方式の方が技術的、経済的に有利である一方、貨物列車では通常は旅客列車ほど速達性を要求しないためである[1]動力集中方式#長所と短所も参照されたい。

本項以下では、日本でどのように電車が発展してきたかについて述べる。

旅客輸送[編集]

路面電車[編集]

博物館明治村における京都電気鉄道の電車

世界初の電車営業運転は、1881年ドイツにおける路面電車であったといわれる。

もともと市街交通には、蒸気機関車牽引による列車は、火災煤煙公害などが問題となる上、加減速性能も低いことから不向きであったため、馬車を発展させた形の馬車鉄道などが使われていた。しかしこれも、給餌などの手間がかかり、糞尿の始末や衛生面での欠点があった。そのため、ヴェルナー・フォン・ジーメンスにより電動機を用いた電気機関車が発明されると、それを乗客が乗れるように改造して馬車鉄道などの代替にしようという考えが生まれ、路面電車の実現に至ったと言われる。

しかし、そのシステムは駆動系に耐久性の低いベルトを用い、しかも集電システムが軌道上に敷設された第3・第4軌条によるなど、明らかに未完成であり、長距離輸送に供するには全く不適当なものであった。

この状況が劇的な改善を見るのは、エジソン研究所出身でエジソンの部下であったアメリカスプレーグの手により、1880年トロリーポールが考案され、更に1887年末から1888年初頭にかけての時期にバージニア州リッチモンドで彼の創案になる電気鉄道システムが稼動を開始してからである。

後にスプレーグ・システムと呼ばれるようになったこの電気鉄道システムは単純かつ耐久性の高い吊り掛け式モーター、直接式制御器、トロリーポールによる架空電車線方式、と後の電気鉄道システムの基本要素を全て備えた、非常に完成度の高いシステムであり、更に1889年には連結運転時の総括制御を可能とする間接式制御器も彼の手によって開発され、ここに電気鉄道は揺籃期を脱し、成長期に入ることとなった。

彼の開発した電気鉄道システムはエジソン麾下のゼネラル・エレクトリック社との2人3脚でスティームトラムや馬車鉄道、あるいはケーブルカーといった既存の市街鉄道システムを駆逐してアメリカ全土に急速に展開され、1890年代にはジョージ・ウェスティングハウス率いるウェスティングハウス・エレクトリック社およびウェスティングハウス・エアブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社、あるいはWABCOとも。現Wabtec社)の参入による交流送電や信頼性の高い自動空気ブレーキシステムの導入を経て、長距離を高速運転する都市間高速電気鉄道(インターアーバン)への道も切り開かれていった。

日本においても、電車の創始は同じようなものであった。1882年開業の東京馬車鉄道をはじめとして、日本各地に馬車鉄道が順次敷設されていったのであるが、前述のような問題点や馬を道具としてみなせない国民性から、次第に取り替えられる形で、電車が普及していったのである。

1890年上野公園で第2回内国勧業博覧会が催されたとき、藤岡市助がアメリカから持ち帰ったスプレーグ・システムによる路面電車2両を、東京電燈が公園内に450mの軌道を敷いて公開運転したのが日本の電車事はじめとなった。そしてその5年後の1895年には、京都市において京都電気鉄道が日本初の電車営業運転を開始した。さらに、名古屋電気鉄道大師電気鉄道小田原電気鉄道豊州電気鉄道江之島電気鉄道宮川電気と続き、東京市1943年東京都となる)でも民営会社によって路面電車が開業し(後に市営化)、1903年には大阪市で初めて市直営の電車(大阪市電)が運行を開始した。

郊外電車[編集]

路面電車が全国で広がると、今度はそれまで蒸気機関車を用いていた路線でも、駅間距離の短い市街地付近などを中心に電車を導入しようという考えが広まっていく。1904年中央本線の前身である甲武鉄道において、蒸気機関車との併用であるが、初めて鉄道路線(路面電車は軌道)で電車の使用が開始された。これは市街区間において、並行して走る路面電車に乗客を奪われるようになっていたため、対策として考え出されたものであった。なお、甲武鉄道は1906年鉄道国有法に基づいて国家買収されたため、甲武鉄道の電車運転を開始した区間は日本の国有鉄道(国鉄)初の電車(国電)にもなった。

またこのとき用いられた電車は、それまでの車両の多くが、複数車両を連結した際に車両ごとに運転士を乗せる必要があったところ(直接制御)、一つの運転台で複数の車両制御ができる総括制御を採用した。これは合理化のみならず電車の長編成化を可能にさせる事にも貢献し、以後の電車の主流となっていく。

その一方で、アメリカで路面電車を都市間交通として発展させたインターアーバンが普及するのを見て、これを日本でも導入しようと言う構想も生まれた。それを最初に実現したのは阪神電気鉄道で、1905年のことである。路面電車の統制を行う軌道法に基づいて建設されたことから、この時使用された車両(1形)はオープンデッキ採用という正に路面電車スタイルであったが、日本の電車初のボギー台車を採用するなどして車体を大型化し、大量輸送に対応できるようになっていた。この阪神電車は営業的に成功を収めたため、以後京浜電気鉄道京阪電気鉄道箕面有馬電気軌道大阪電気軌道などといった、類型路線を敷設する会社が続々と出現する事になる。また、名古屋電気鉄道のように市内電車を営業していた会社が、郊外電車へ進出した例も見られた(同社は路面電車と郊外電車の直通運転も行った)。

技術革新と質の向上[編集]

大正昭和期に入ると技術革新により、それまで工業技術水準が低かったため外国製に依存していた主要機器を徐々に国産に移行しようという動きも見られるようになる。

その過程で東洋電機がイギリスのイングリッシュ・エレクトリック社との提携によって京阪電気鉄道などの出資によって創設され、日立を除く他の重電メーカー各社もゼネラル・エレクトリック(東芝)、ウェスティングハウス(三菱)、メトロポリタン・ビッカース(三菱)など、欧米の電機メーカー各社との提携関係を結んで当初はそれら提携先の製品のライセンス生産あるいはスケッチ生産からはじめ、やがて独自設計の製品を生み出すようになっていった。

その一方で、電車の性能自体も格段に向上していった。この頃、アメリカのインターアーバンは衰退期に差し掛かっていたが、技術的にはまだ日本よりはるかに優位にあったことから、各私鉄の技術者などが訪米視察し、日本においても見習って新技術を取り入れようとしていた。

まず1923年には、それまで低圧の600V直流電源を用いていた電化方式に対して、送電の効率面で優れる1500V直流電源を採用しようという動きが、大阪鉄道神戸姫路電気鉄道などで開始された。その翌年の1924年には、南海鉄道で日本の電車としては初めて食堂車便所を備え、かつ全編成貫通構造とした電7系も運行を開始している。

また、便所などを搭載した電車が現れたことからも分かるように、この頃からそれまで精々50km未満の短距離区間でしか使用されていなかった電車は、次第に50~150km程度の中距離輸送へも用いられるようになっていく事になった。1911年に南海鉄道で64kmの電車運転を開始したのを始めとし、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行された。

さらに設備やスピードの向上も推し進められ、1933年には直線主体の良好な線形の軌道に重軌条と重架線を敷設し、当時最大級の150kW級主電動機を搭載する全鋼製車を揃えて開業した阪和電気鉄道で、表定速度81.6km/hを記録する「超特急」および「黒潮号」(いずれも阪和天王寺~東和歌山間61.2kmを45分で走破)の運行が開始された。この記録は第二次世界大戦後に国鉄が当時最新の151系電車を使用する特急「こだま」で破るまで、実に26年間に渡って日本最高のタイトルホルダーであり続けた。

なお鉄道省線(国鉄)においては、特に陸軍などが変電所が攻撃されると運行不能になることを理由として、頑なに鉄道電化そのものに対して反対の姿勢を持っていた。そのため、私鉄ほど長距離電車運転が普及したとは言えなかった。

しかしそれでも、東京・大阪の2大都市近郊区間における国電は拡充が行われた。また、1930年には横須賀線クロスシートを採用した中距離電車が運行を開始し、1937年には並行私鉄との競合にさらされた関西地区の京都駅明石駅間の95kmで、高速運転を行う「急行電車」(急電)が(なお、急電自体は1934年から大阪駅神戸駅間で運行開始)走るようになった。

第二次大戦後の復興[編集]

戦時体制に入ると、乗客誘致に国鉄や私鉄が精を出せる状況でなくなったこともあり、技術革新は停滞することになる。また空襲などによって、電車も多くが被災して運行不能になった。

戦後直後も、部品不足などによる整備不良などが原因で多くの電車の使用が不可能となり、客車代用として用い蒸気機関車に牽引される形で運行を行ったこともあった。国鉄では63系のような戦時設計の簡易構造車を大量増備して増加する乗客に対応したが、この63系は運輸省の方針で被災した一部の大手私鉄へも割り当てられることになり、中小私鉄では大手私鉄からそれによって不要となった小型車を譲ってもらうことで輸送力をそれぞれ回復させようとしていた。

その後、混乱は次第に収まりを見せるようになり、1947年近畿日本鉄道における名阪特急を始めとして、他に東武鉄道や小田急電鉄などでは特別料金を取る電車列車も運行されるようになった。

また1949年には、戦前のような陸軍の反対がなくなったこともあり、積極的に全国幹線の電化を推し進める事になった日本国有鉄道(国鉄)で、80系湘南電車)という中距離用電車が開発された。同車は1950年には東京駅伊東駅間を運行する準急列車あまぎ」に投入され、さらには浜松駅名古屋駅へと次第に運転区間は300kmを超えるまで延長され、そこで客車列車を凌ぐ性能を発揮したことから、長距離区間においても電車における運用が組め、さらにそれが日本において優れていることを証明し、これ以後の日本における列車の動力方式を、前述したように動力集中方式から動力分散方式へ移行させていく契機ともなった。

貫通ほろの標準化[編集]

日本においても電車は当初小単位の輸送手段として導入された経緯から、単行~4連程度までの編成長を意識した設計がなされ、戦後大量輸送用化しても、1951年頃までは、編成を貫通する貫通路が設けられていないのが普通だった。中間車の車端部には乗務員が移動する為の貫通扉が設けられていたが、乗客が移動する為のものではなく、この為貫通ほろは設けられず、扉も引き戸ではなく、内側に向かって開く構造だった。例外として、国鉄優等列車並みの装備を意識した関西地区の私鉄と、それに対抗する大阪鉄道管理局の国鉄電車は戦前から装備していた。

戦後、電車が優等列車に投入されるようになると、関西地区以外でも貫通路と貫通ほろを装備した電車が登場し始めた。国鉄では1949年に登場したモハ80系電車が統一された設計としてははじめてこれらを最初から装備した形式になった。しかし、短距離運用の電車は、戦後の資材不足の影響もあり、依然とした形態が続いていた。

しかし、1951年に発生した桜木町事故(火災事故)において、貫通路が装備されておらず、火元になった車両から隣接する車両に移動できなかった事が被害を大きくした一因になった事から、国鉄では急遽、電車の貫通路を、客車同様の引き戸・貫通ほろ付に改造する事が決定された。国鉄では1954年までに他の体質改善工事と併せて改造を終了し、大手私鉄もこれに倣った。ただ、地方の中小・零細私鉄や、大手私鉄でも軌道線由来の小断面の車両にまでは完全に行き渡らなかった。

国鉄モハ80系は電車用として新しい規格の貫通ほろが採用されていたが、桜木町事故後の改造では、速やかに工事を進展させる為、大鉄局で採用実績があり、客車用の保守部品としてストックされていた貫通ほろを流用した事から、結局国鉄では客車と同一の旧態依然とした片持ち式の貫通ほろ構造が電車にも装備され、JR化以降の新世代系列の登場まで踏襲された。モハ80系についても、晩年バラ転用が始まると、他形式との混結の必要から同一の貫通ほろに改造される例が散見された。

新性能電車による運用の拡大[編集]

国鉄101系
小田急ロマンスカー3000形SE
新幹線0系
名鉄7000系 ”パノラマカー”

1953年京阪1800系東武5720系都電5500形6500形営団300形大阪市電3000形電車を始めとして、従来の吊り掛け駆動方式に比べ効率・乗り心地・高速性能などの面で優れるカルダン駆動方式が開発され、以後の電車の主流方式となっていく事になった。国鉄でも、1957年モハ90系からカルダン駆動方式の電車を順次投入し、これらは新性能電車と呼ばれるようになった。

また同じ1957年に、小田急では3000形(SE車)と呼ばれる連接台車を採用した特急用車両(小田急ロマンスカー)を国鉄鉄道技術研究所の協力を得て開発し、国鉄に貸し出されて東海道本線で高速試験を行った。

更に、電化に関する地上整備コストを安く出来る交流電化1955年に仙山線で採用されると、1961年には日本初の交直流電車である401系常磐線用に開発投入された(なお、国鉄時代には全国的な車両配置転換を考慮し、北海道地区を除いては交流型電車(交流専用車)が投入される事は殆どなかった)。

1958年には、小田急3000形の影響も受けて国鉄の特別急行列車(特急)にも電車(20系)が用いられるようになる。動力分散方式による高速列車の開発は更に進み、1964年には新幹線東海道0系)として結実を見る事になった。この実現には、戦前より動力分散方式の優位性を主張し、前述した80系の開発も担った島秀雄が大きく貢献した。また島は、貨物列車も動力分散方式によるのが望ましいとも主張していた。

運行路線に適応していく電車[編集]

通勤輸送がある程度充足されるようになると、長距離路線や観光路線を抱える私鉄は独自性のある特急用車両を開発し、乗客へのアピールを行った。1958年に近畿日本鉄道が2階席を設けたビスタカー10000系1961年南海電気鉄道は優雅なデザインと山岳路線への直通を可能にしたデラックスズームカー20000系を投入。そして、運転台を二階に置き前面展望を楽しめる名古屋鉄道パノラマカー7000系など)、小田急電鉄のロマンスカー3100形など)も次々にデビュー、華やかさを競った。

また、私鉄各社は前述のような有料特急車両を投入する会社と、通勤輸送用の一環としての特急車両を投入する会社(阪急京急など)に色分けされるようになった。

山地の多い日本では、勾配の続く山岳路線も多く、平坦線とは異なる性能の電車が要求された。これに対し国鉄は、平坦線用の出力強化型の系列に抑速ブレーキを追加した勾配線用の系列を開発(例、113系115系)。近郊型から特急型までを揃え、電車の運用範囲は全ての電化路線に及ぶようになった。また、電車は得意の高加速性能を発揮し、従来機関車が重連補機を用いていた急勾配区間でも補機を必要とせず、速度向上やコスト削減に大きく貢献した(例外として、付随車の割合の多い特急列車の一部区間、そして国鉄随一の難所碓氷峠では補機が必要となった)。

国鉄での停滞と都市交通の変容[編集]

営団6000系電車

国鉄における技術革新は、世界でも珍しい寝台座席車兼用の581系・583系電車1967年に開発され、1973年自然振り子式車両381系電車が出来た辺りを最後に、停滞するようになっていく。その背景には、労使関係の悪化もあって、新形式の投入に対して国鉄労働組合(国労)や国鉄動力車労働組合(動労)が反発したこと、試運転の実施もこれらの労組の非協力的姿勢や反発で困難だったことがあり、なお、国鉄財政悪化のなかで通勤五方面作戦などの混雑緩和に追われ、新形式投入よりも既存車両と同一の車両を大量増備した方が、安定的と見られた事があるとされる。そのため、国鉄の電化区間においてはその末期辺りまで、昭和30年代に開発された103系電車113系電車などの車両が20年前後の長きにわたり投入され続け、東海道・山陽新幹線でも、開業以来1980年代半ばまで0系電車が長年にわたり増備され続けるという、技術的に停滞する結果を招いた。

その一方で、私鉄では徐々に技術革新が進んでいった。帝都高速度交通営団(今の東京地下鉄)で、それまでの制御方式である抵抗制御に代わって、電機子チョッパ制御(熱放出量が少ない・消費電力を軽減できるシステムである回生ブレーキの使用が可能)並びにアルミ合金車体(メンテナンスの軽減や軽量化の利点がある)を採用した6000系電車1968年に開発された。また、東京急行電鉄は昭和30年代からステンレス車体(アルミ合金に同じ)を積極的に採用していたが、やはり回生ブレーキが使用できる界磁チョッパ制御方式の導入に至った。高度経済成長期の最盛期からオイルショック後の時代にかけ、質より量に傾きがちであった国鉄に代わり、車両・重電メーカー各社との協力で、日本の電車の技術革新を実効的に推進した、という点で、この時期の大手私鉄企業・地下鉄事業者の功績は大きい。

国鉄201系電車

しかし私鉄についても会社によって方針は様々であり、抵抗制御・鋼製車体の車両を維持する会社もまだまだ多かった。なお、地下鉄各社が新技術の導入に積極的なのは、抵抗器の廃熱によるトンネル内の気温上昇・勾配区間の連続等、地上路線よりも運転条件が厳しかったことによる。また、国鉄で前述の技術を採用した電車が製造されるには、オイルショックに伴い省エネが叫ばれるようになった、1979年201系電車(電機子チョッパ制御・鋼製車体)まで待つ必要があった。

また、都市交通として使命を長く負っていた路面電車も、自動車社会の発達(モータリゼーション)の影響で、大都市を中心に広島市などの例外を残して、次々と廃止されていった。大都市近郊においては、路面電車の代わりに地下鉄の建設(1927年東京地下鉄道が都市交通としては初)が盛んになっていく。

通勤形・近郊形車両への冷房導入や、都市発達による編成の長大化、緊密ダイヤ化なども、この頃推し進められるようになっていった。ロングシート通勤車両の冷房化は京王帝都電鉄(今の京王電鉄5000系電車に端を発しているが、地下区間において前述のトンネル内気温上昇の問題があり、抵抗制御の車両に限らず地下鉄車両には冷房機を設置することが躊躇され(冷房機もまた車外に熱を排出する為)、サービス向上の足枷となった。

熊本市交通局8200形電車

1983年には、熊本市交通局インバータ技術を活用した可変電圧可変周波数制御(VVVF制御)を用いた8200形電車が製造された。この方式は現在に至って、電車・電気機関車の主流方式として広く採用されている。

国鉄末期には、211系電車205系電車で直巻電動機を使用し、簡便な回路構成を用いて回生制動を使用できる界磁添加励磁制御方式が開発・採用される一方、1986年に1編成のみが試作された207系電車のように、実用化まもないVVVF制御をいち早く導入しようと言う気運も見られた。これらは、国鉄分割民営化に伴うJR各社発足後、本格的に進展する事になる。なお、211系・205系電車では合金製車体の他、機構を簡略化し軽量化を図った、ボルスタレス台車も採用されている。

JR発足後から現在まで[編集]

JR九州885系

JR発足後、各社における進取の風潮は更に高まり、独自性を打ち出す会社も増えた。たとえば九州旅客鉄道(JR九州)では、電車のみでなく気動車もそうであるが、水戸岡鋭治デザイナーによるインパクトを持った外見と、快適さを追求したデザインの内装を持った車両が製造されるようになった。

また西日本旅客鉄道(JR西日本)では国鉄時代に製造された車両も、延命工事・車内改装を施して残す面があり、その一方で東海旅客鉄道(JR東海)などでは国鉄形車両を早期に淘汰する面があるなど、各社における方針にも大きな食い違いができつつある。どちらにしても、国鉄時代は私鉄主導で技術革新などが進んでいたものが、分割民営化後はJR主導の流れになった事は確かといえた。

地域輸送[編集]

JR東日本E231系

新車の製造コストや保守整備コストを抑えようと言う観点から、東日本旅客鉄道(JR東日本)では209系において車両の軽量化・大量生産方式を採用し、続くE231系ではそれまで存在した近郊形電車通勤形電車の区分を廃して、一般形電車と言う新基準を設け、2車種をまとめた事により開発コストの削減も図った。さらにはE231系とほぼ同一仕様の電車を投入して、大手私鉄などでも開発コスト・製造コストを抑えようという声も出た。これは相模鉄道10000系などで採用された。

昨今ではその考えを推し進め、各社における車両仕様の共通化を図って、製造・整備費用の削減を目指そうということから、通勤・近郊電車の標準仕様ガイドラインと呼ばれる基準が制定された。これにしたがって、東武鉄道で50000系が製造されたりもしている。

また、前述した連接構造など新機構を採用した一般形電車のE331系が製造されるなど、乗り心地の改善を図ろうという試みもなされている。

その一方で路面電車においては、超低床電車(LRV)と呼ばれるバリアフリーの観点に立った電車の採用も各事業者でなされるようになった。ライトレールへの脱皮を図り、生き残りを図ろうという施策の一つと言えるものである。

都市間輸送[編集]

JR四国8000系電車

特急形車両にもJR各社がそれぞれの路線にあった特急形電車・気動車を開発しているが、国鉄381系電車で実用化された自然振り子式を改良した各種の車体傾斜システムを導入した形式が各地に登場し、運転時間の短縮に貢献する事となった。

きっかけは1989年四国旅客鉄道(JR四国)が投入した、営業用として世界初の制御付き自然振り子式の2000系気動車であった。381系は自然振り子式であったため乗客が酔いやすいなどの問題点があったが、2000系気動車では車体の傾斜を強制的に行う制御装置を追加することで解決を図った。

この成功を受けてJR各社は制御付き自然振り子式電車を開発し、曲線が多く速度向上が困難だった幹線区間に投入した。まず1992年にJR四国が8000系電車を投入した。その後も、JR東日本E351系電車(1993年)、JR東海383系電車(1995年)、JR九州883系電車(1995年)、JR西日本283系電車(1996年)、JR九州885系電車(2000年)と、JR北海道を除く各JR旅客会社がこの方式の電車を開発・運用している。JR東海の383系は同社の381系電車を全て置き換えたが、JR東日本のE351系およびJR西日本の283系は従来車両全てを置き換えずに製造を終え、新造投入された非車体傾斜車両とともに運用されている。

空気ばねの伸縮を利用した強制車体傾斜式は、自然振り子式よりシンプルな機構で製造・保守も容易なため、新幹線電車では2007年に使用を開始したN700系をはじめE5系E6系で、また私鉄では名古屋鉄道2000系電車など)・小田急(50000形電車)の有料特急用形式で、それぞれ導入されている。

貨物輸送[編集]

私鉄用電動貨車の例(新潟交通モワ51
JR貨物M250系

旅客のみならず、貨物輸送用の電車(電動貨車)も製造された。主に大正時代から昭和初期の戦前期にかけて私鉄向けに多く製造された。しかし、貨物輸送は貨車を国鉄・私鉄などの各線相互間を直通させることで行われる例が多く、国鉄線に直通できないことは大きな欠点となった。距離の短い一私鉄路線内で完結でき、しかも車両一両分で賄える程度の小量の貨物輸送にしか対応できないため、自動車が普及した1950年代以降はほとんど需要がなくなり、廃れていった。電車による貨物輸送とはいえないが、一部の小規模私鉄では電車を電気機関車の代わりに用い、貨車をけん引させる例もあった。

国鉄内部で島秀雄は、旅客列車のみならず貨物列車も動力分散方式が望ましいと主張したが、国鉄ではコンテナを電車で輸送することを検討し、1960年に試作車としてクモヤ22形2両を製造し、試験を行ったが、実用化には至らなかった。なお、荷物車の電車は存在した。

現在なお、動力集中方式で運行される貨物列車がほとんど全てを占めている中にあって、JR貨物では2002年、実用の長編成貨物列車としては世界初の動力分散方式を採用したM250系コンテナ貨物電車を新製したが、少数に留まり、運用区間や積載コンテナも制限されている。

脚注[編集]

  1. ^ 1984年まで貨車については輸送内容・量・区間に応じて1両単位の任意の車種、量数で編成を組むことが主流だったためなおさらだった。

関連項目[編集]