北海道日本ハムファイターズ

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北海道日本ハムファイターズ
会社名 株式会社北海道日本ハムファイターズ
創設年度 1946年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名
  • セネタース(1946年)
  • 東急フライヤーズ(1947年
  • 急映フライヤーズ(1948年
  • 東急フライヤーズ(1949年 - 1953年
  • 東映フライヤーズ(1954年 - 1972年
  • 日拓ホームフライヤーズ(1973年
  • 日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年
  • 北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 現在)
本拠地
札幌ドーム
Sapporo dome view from seats.jpg
収容人員 札幌ドーム
固定客席:40,476席
フィールドシート:202席
車椅子用席:117席
ファミリーシート:50席
フランチャイズの遍歴
永久欠番
00:使用休止 | 0:使用休止 | 100:大社義規
獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)
2006
日本一(2回)
1962 | 2006
リーグ優勝(5回)
1962 | 1981 | 2006 | 2007 | 2009
セ・パ交流戦優勝(1回)
2007
成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
2006
日本シリーズ出場(5回)(太字は勝利した年)
1962 | 1981 | 2006 | 2007 | 2009
クライマックスシリーズ(4回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
2勝2敗
2007 | 2008 | 2009 | 2011
プレーオフ(2004-2006)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
1勝1敗
2004 | 2006
プレーオフ(前後期制)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1勝1敗
1981 | 1982
球団組織
オーナー 大社啓二
運営母体 日本ハム
監督 栗山英樹
株式会社北海道日本ハムファイターズ
HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS
種類 株式会社
略称 HNF
本社所在地 日本の旗 日本
〒062-8655
北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地
札幌ドーム内)
設立 2003年8月
業種 サービス業
事業内容 プロ野球球団の運営
代表者 大社啓二取締役オーナー)
津田敏一代表取締役社長
資本金 2億円(2009年12月31日時点)
純利益 3億2,900万円
(2009年12月期)
純資産 10億4,700万円
(2009年12月31日時点)
総資産 33億7,600万円
(2009年12月31日時点)
決算期 12月末日
主要株主 日本ハム
ほか(#グランドパートナーを参照。)
外部リンク http://www.fighters.co.jp/
特記事項:2004年に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。
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北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団の一つである。

北海道保護地域とし、札幌市豊平区にある札幌ドーム本拠地としている。この他、2003年までの本拠地で現在も準本拠地としている東京都文京区にある東京ドーム後述)、北海道内の地方球場(後述)でも主催公式戦を開催している。

なお、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。

新聞などでの略表記は「ハム」または「日ハム」。

目次

[編集] 球団の歴史

[編集] 東京時代

[編集] セネタース・東急

1945年11月6日、戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規にセネタースSenators、企業名:セネタース野球協会)を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。

大下弘飯島滋弥白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。

華族西園寺公一オーナーに付け、銀座キャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登スポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢は球団経営を諦めざるを得なくなった。

なお、東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある[1]

1946年12月18日東京急行電鉄に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却[2]。東京急行との仲介の労をとったのは小西得郎浅岡信夫黒川渉三という[3][4]。運営法人として、株式会社東急ベースボール倶楽部を設立。翌1947年の1月7日、チーム名を東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。

1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers)に改称した[5]。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元に戻った(大映ユニオンズを参照)。

この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズKyuei Tic Flyers)」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス(Otsuka Athletics)のチックを絡ませた名称だった。

フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区後楽園球場とする(1952年より、正式導入される)。

1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。

1953年9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。

[編集] 東映・日拓ホーム

1954年1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社[6]に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。 1960年12月、前読売ジャイアンツ(巨人)の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。

1962年東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる)。水原監督の下で土橋正幸尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。

1964年国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本勲大杉勝男白仁天毒島章一ら強打者を擁した。 1968年は、草創期の人気選手・大下弘が監督就任(16年ぶりの球団復帰)したものの、シーズン途中で休養。また、球団史上初の最下位に終わる。 1970年、「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。 1971年には、名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任し、岡田の盟友で球団所有権を有する五島昇東急社長と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放すこととなる。

1973年1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝の経営する不動産会社日拓ホームへ球団を売却。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers)に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで日本ハムに売却することとなった。

[編集] 日本ハム(後楽園)

1973年11月19日日本ハムへ売却。法人名は日本ハム球団株式会社となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。12月17日、新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters)となる。

日本ハム最初のシーズンとなった1974年は、前後期合わせて6位、総合最下位に終わる。張本勲が7度目の首位打者獲得。 1975年は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝。 1976年に中西監督が辞任し、大沢啓二が監督就任。 1979年、高橋直樹が20勝。島田誠が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。

1980年、新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。後期は最終戦を前に優勝にあと1勝までこぎつける。最終戦の対近鉄戦(後楽園球場)は満員の観衆を集め、急遽NHKがラジオで実況中継したほどであったが、3回から登板した木田が打ち込まれて敗れ、近鉄の逆転優勝を許した。オフには広島とのトレードで高橋直樹を放出し、優勝請負人・江夏豊を獲得。

1981年、江夏が当時存在した全12球団からのセーブを達成。後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを破り、東映時代から数えて通算2度目のリーグ優勝。巨人との日本シリーズ(通称「後楽園決戦」)では井上弘昭が活躍するもトミー・クルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。打撃陣ではクルーズの他、柏原純一トニー・ソレイタらの活躍が光った。また、島田や菅野、高代といった小兵選手が優勝メンバーに多かったのも特徴だった。 間柴茂有が15勝無敗。ソレイタが本塁打・打点の2冠王。岡部憲章が防御率1位。江夏がセーブ王。柏原がプレーオフMVP。

1982年は後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に敗れ、2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。

1983年、パ・リーグの1シーズン制が再開。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。1984年植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため途中解任。終盤は大沢が代行を務めた。1985年高田繁が監督就任。 1987年西崎幸広が新人にして15勝(7敗)・防御率2点台と大車輪の活躍。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。

[編集] 日本ハム(東京ドーム)

東京ドーム(1988年から2003年の本拠地。2004年以後は準本拠地として使用)

1988 - 2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広柴田保光らが投手王国を形成。 観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかしこの16年間でリーグ優勝は1回もなかった。

1988年、東京ドーム元年。西崎、松浦宏明が最多勝、河野が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかしチーム打率、得点数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位は確保したものの勝率は5割を切った。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。 1989年、高田監督が辞任し、近藤貞雄が就任。前年とは変わって、投手陣の不調で5位に終わる。 1990年柴田保光ノーヒットノーラン達成。チームは4位だったものの、勝率5割を確保。 1991年、白井一幸が最高出塁率。武田一浩が最優秀救援投手。貧打線で5位に終わる。 1992年土橋正幸が1973年後期以来の監督復帰、しかし2年連続の5位に終わり、土橋はチームの成績不振の責任を取る形で1年で辞任。

1993年、大沢が監督復帰。リーグ2位でわずかの差でリーグ優勝を逃した。 1994年、チーム打率、防御率共に最下位という状況で、リーグ最下位に終わる。最終戦には東京ドームのマウンド上で大沢監督自ら土下座でファンに謝罪した。観客動員数が、東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。

1995年、大沢が勇退し、元オリックスの上田利治が監督就任。初年度は4位に終わる。 西崎がノーヒットノーラン達成。キップ・グロスが最多勝。田中幸雄が打点王を獲得。 1996年、上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養し、チームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。 キップ・グロスが最多勝、金子誠が新人王、島崎が最多ホールドを獲得。

1997年、巨人を自由契約になった落合博満をヤクルトとの競合の末獲得。リーグ4位。 ナイジェル・ウィルソンが本塁打王。二軍は、本拠地を神奈川県川崎市日本ハム球団多摩川グランドから千葉県鎌ケ谷市ファイターズスタジアムに移転。移転初年度にしてファーム日本選手権を制覇。

1998年、チームのエースだった西崎を西武との交換トレードで放出し、石井丈裕奈良原浩を獲得。 開幕直前にヤクルトとの交換トレードで城石憲之を放出し、野口寿浩を獲得。 ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦、小笠原道大を擁してビッグバン打線と呼ばれた。前半戦は首位だったが、西武に大逆転され優勝を逃した。ウィルソンが本塁打・打点王。金村が防御率1位。片岡が最高出塁率。落合が現役引退。

1999年、小笠原が一塁に転向、「史上最強の2番打者」として活躍。リーグ5位。 2000年、上田が辞任し、大島康徳が監督就任。小笠原が最多安打。強力打線で優勝争いに加わるも、ダイエーと西武に敗れて3位に終わる。 2001年、小笠原が最多安打。シーズン序盤から野手陣に故障者が続出し、強力打線が低迷、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。

2002年、観客の増加を図るため、それまでプロ野球球団がなかった北海道札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になる。 東京のファンや、同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて移転を受諾させ、東京のファンには、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行う事を約束した。小笠原が初の首位打者を獲得。正田樹が球団では金子以来の新人王。しかし、選手層の薄いチームは5位に終わる。

2003年、成績不振から大島監督が解任され、トレイ・ヒルマンが監督就任。東京ドーム最終年。小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得。チームは2年連続の5位。8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる株式会社北海道日本ハムファイターズを設立。オフに新庄剛志(登録名「SHINJO」)、入来祐作を獲得。

[編集] 北海道時代

[編集] 北海道日本ハム

2004年

本拠地を札幌ドームに移転(事務所も東京都港区六本木六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。チーム名も北海道日本ハムファイターズとし、地域に密着したチーム作りを目指す。同時に日本ハム球団株式会社は、株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、特別清算手続きをとった[7]。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。なお、旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。

同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場を、千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決めた。しかしプレーオフ1stステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退。二軍がイースタン・リーグ制覇している。フェルナンド・セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横山が28セーブで最多セーブ。オフにFA宣言したヤクルトの稲葉篤紀を獲得。球団史上初のFA選手獲得となる。ドラフト会議では1位指名した東北高校ダルビッシュ有の交渉権を獲得した。

2005年

元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャー(GM)に就任。4月27日、日本ハム球団の初代オーナー大社義規が死去。背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番になった。この年から始まったセ・パ交流戦で11連敗を喫し、チームは5位に終わる。

2006年

4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表。セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりとなる11連勝(当時の球団最多タイ)を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。西武には7勝13敗と負け越したものの、ソフトバンクにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと東北楽天ゴールデンイーグルスにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。プレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝(アドバンテージ1勝)で制し、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との日本シリーズを4勝1敗で制し、10月26日に44年ぶりの[8]日本一に輝く。その後、11月12日、かつての本拠地の東京ドームで行われたアジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となった。

小笠原が本塁打・打点の2冠王。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。八木智哉が12勝で新人王。オフには、SHINJOが引退。小笠原が巨人へ、岡島秀樹MLBボストン・レッドソックスへそれぞれFA移籍した。

2007年

5月17日、田中幸雄が球団初となる生え抜きでの通算2000本安打を達成。5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、6月8日の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。ライアン・グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。9月19日、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権を最初に獲得すると9月29日、球団史上初のリーグ2連覇を達成した。ロッテとのクライマックスシリーズ第2ステージを3勝2敗で制し、2年連続で日本シリーズ出場を決める。日本シリーズで前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦では山井大介岩瀬仁紀の継投による完全試合[9]もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。

10月3日、高校生ドラフトで中田翔の交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。田中幸雄が引退、トレイ・ヒルマン監督と高田GMが退団した。後任には元大阪近鉄バファローズ監督の梨田昌孝と、アマスカウト部門のシニアディレクターの山田正雄がそれぞれ就任した。

2008年

開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、それでも投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日10月12日クライマックスシリーズでは1stステージの対オリックス戦を2連勝で突破したが、2ndステージの対西武戦は2勝4敗で敗退した。

2009年

4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。4月19日、パ・リーグ通算タイ記録の1試合9二塁打を達成。7月18日釧路市民球場で行われていた対西武戦が大雨でノーゲームとなり、北海道移転6年目で初の日本ハム主催試合が中止となった[10]

8月18日福良淳一ヘッドコーチ、ターメル・スレッジ宮西尚生新型インフルエンザに感染した。球界初の新型インフルエンザ感染者となった[11]10月6日の対西武戦で5対4と勝利し2年ぶり5度目のリーグ優勝を本拠地の札幌ドームで決める。[12]。試合後の共同記者会見を球場内で観客公開のもとで行い(日本プロ野球史上初)、祝勝会の模様を大型ビジョンに中継した。
10月10日、年間主催試合観客数が199万2000人と、札幌移転後では過去最高を記録した。

投手陣ではダルビッシュと武田勝以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、多くの先発投手に登板機会が与えられた他、宮西尚生、菊地和正リリーフ陣が成長し、武田久は無敗のまま最優秀救援投手に輝いた。野手陣では大野奨太二岡智宏らが加入し、更に糸井嘉男の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率は前年の12球団中最下位からトップになった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越しもあったが、5球団全てから2ケタ勝利を挙げた。特にロッテには7月に9連勝を記録した事で、18勝6敗と大きく勝ち越した。クライマックスシリーズ2ndステージで、楽天を4勝1敗で下し、クライマックスシリーズ2度目の制覇をするが、日本シリーズでは巨人と対戦、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパリーグ優勝記念パレードが行われ、約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。

球団史上最多となる7人[13]の選手がゴールデングラブ賞を受賞する。また、ダルビッシュ有が2年ぶり2度目のパ・リーグMVPとベストナインを受賞している。

2010年

1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した小林繁心不全の為、57歳で急逝。それに伴い、23日、二軍投手コーチの島崎毅が一軍に転籍。

開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥る[14]。シーズン序盤は主力の怪我と投打の歯車が全くかみ合わず、守備でも失策が目立った事で黒星を重ね、最大14の借金を抱え込む。そのため、一部報道では選手の起用を巡って、「若手にチャンスを」というフロント陣と、「ポジションは与えるものではなく、奪うもの」と、ベテラン重視の梨田監督の間で意見が対立し、シーズン中フロント陣が補強の間違いを詫び和解したという説がある[15][16]。それでも交流戦終了後に急激に調子を取り戻し、7月1日に最大14の借金を完済。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから2ケタ勝利を挙げた。ただ、交流戦での日本ハムの順位は12球団中6位ながらも、パ・リーグ6球団が上位を占めた為、他の5球団に比べ交流戦での貯金が少なかった。最終戦まで、ロッテとCS争いをしたが、前半戦の不振が尾を響き10月1日に5年ぶりのBクラスとなる4位決定した。シーズン最終戦で、北海道移転後の主催試合動員数が1000万人を突破したと発表。年間主催試合観客数も194万人を記録した。

10月28日2010年ドラフト会議で、早稲田大学斎藤佑樹の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた榊原諒がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには建山義紀がMLB・テキサス・レンジャーズへ、森本稀哲が横浜へそれぞれFA移籍した。

2011年

この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は下述を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越しことが響き、最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武とのクライマックスシリーズ1stステージでは2戦とも先発投手が好投するも、終盤に逆転され連敗となり、ストレートで敗退している。2軍では2004年以来7年ぶりのイースタンリーグ制覇を成し遂げている[17]

8月27日、梨田監督が今年の成績如何にかかわらず、今季限りでの退任の報道が流れ[18][19]9月15日に正式に梨田監督の退任が発表された[20]。梨田の後任監督はスポーツジャーナリストでテレビ朝日TBSラジオ野球解説者の栗山英樹が就任。2011年ドラフト会議では東海大菅野智之の交渉権を巨人との競合の末獲得したが、入団拒否されている。

2012年

ダルビッシュ有がポスティングシステムを利用してMLB・テキサス・レンジャーズに移籍。横浜を退団したスレッジが3年ぶりに復帰した。

[編集] チームの特徴

球団史上、生え抜き監督(当球団のみで現役生活を終えた後に監督を務めた人物)は保井浩一土橋正幸の2人のみである(なお、土橋は日拓時代の1973年と日本ハム時代の1992年に監督を務めたが、その間の1984年から1986年にヤクルト監督を務めた事がある)。

歴代の4番打者も他球団から移籍した選手が多い。小田義人(ヤクルト)、柏原純一(南海)、落合博満(巨人)、外国人では1990年から1994年のマット・ウインタース、1999年から2002年のシャーマン・オバンドー、2004年から2007年まで、4番に座っていたフェルナンド・セギノールなどである。80年以降、半シーズン以上定着した生え抜きの4番打者は古屋英夫田中幸雄高橋信二小谷野栄一のみである。

札幌移転後はトレードによる補強が積極的に行われ、他球団と比較しても多い。2006年以降で見ると、同年3月24日に行われた岡島秀樹實松一成古城茂幸のトレードから数えて、18人の選手がトレードによる入団、21人の選手が退団であり、これは毎年約7人の選手がトレードで入れ替わるペースである。ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり、その根拠となっているものは「ベースボール・オペレーション・システム」という情報システムである[21]。これは所属選手を成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正に育て、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持することを目標としたものである[21]。その結果、内外野手守れる選手が5人いる。それでも、年俸はチームの状態が良いため現在の日本人の総年俸額が12球団中5位になっている。選手は全員で65名を維持している。BOSは千葉ロッテマリーンズ福岡ソフトバンクホークスにも採用されている。過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。(山田正雄GM)」[22]とこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。

上記の通り年俸総額を抑えるため、ほとんどが高年俸であるフリーエージェント(FA)選手の獲得には基本的には消極的である。そんな中、2004年オフに唯一稲葉篤紀をFAで獲得している[23]。稲葉はその後、2006年には日本シリーズでMVPを獲得するなど日本一に大きく貢献し、2009年に主将に就くなど、チームの顔として活躍している。

過去1人も育成選手を採用しておらず、現在は12球団中唯一となっている。過去に育成枠に大学生を指名しようとしたが、その大学生が既に内定を得ていたため、NPBから「内定者への育成枠指名は禁止」と通達され断念。現在、「いくら個別練習しても、実戦体験に勝る練習は無い」という方針で、選手の出場機会を増やすために取ってはいない。

過去1人も盗塁王を出していない。張本勲と島田誠は、かつて共に通算300盗塁を記録したが、広瀬叔功福本豊がタイトルを保持し続けた期間が長く、タイトルを取れなかった。大下剛史は広島移籍後の1975年に盗塁王になった。

本塁打の出やすい東京ドームを本拠地としていた時代はビッグバン打線を中心とした攻撃型チームだったが、広い札幌ドームに本拠地を移転したことと、2005年に5位に終わった事でトレイ・ヒルマン監督がチーム方針を転換したことを機に、2006年以降は投手力・守備力主体のチームとなり、犠打や走塁による得点を目指すスモールボール型のチーム編成となった。

伝統的に選手同士仲がよく、選手とファンの距離も近い。阪神からトレード移籍してきた坪井智哉は当時これを「アットホームすぎる」と表現した。このチームカラーは二軍本拠地や合宿所を日本ハム球団多摩川グランド近辺に置いていた時代から確立されており、整備が整っておらず自ずと選手とファンの距離が近くなる環境が生んだ伝統である。[3]

[編集] 球団の観客増加戦略

札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し、チームの好成績も相まって東京ドーム時代よりも大幅に観客が増加した。2005年以降は、1993年以来の100万人超の観客動員を続けており、200万人に迫った年もあった。これはソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。

なまらチケット
公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。
チョッQR
2009年には12球団初の、携帯電話のQRコードによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。
KONKATSUシート、シンデレラシート
2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募、男子は半分以下となり、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。
2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。[24]
ウィークデー割引
曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。
なお、これは東京ドームでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、札幌ドームの試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。購入は当日券売り場、札幌ドームの試合のみファイターズステーション(札幌駅北口付近)でも可能で、2011年から金曜日が無くなり、火曜日が「メンズ&シニアデー」、水曜日が「レディース&学生デー」になった。

[編集] 東京時代

  • 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
  • 1947年から1973年に使われた愛称「フライヤーズFlyers)」は鳥の英語表現から取っているが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有し、2007年まで東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。
    • 1974年から使われている「ファイターズFighters)」は「闘士」の英語から取った。略号は「F」。「ファイターズ」の名は公募によるもので、名付け親となったのは岡山県の女子高生であり(ファイターズと名付けた人は、後の本拠地となる北海道を含めて多数いた)、「大杉勝男選手が、ガッツがあるファイターだから」というのが命名理由である。
  • 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
  • 2003年までのフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時に日本プロ野球界初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。
  • 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「死のロード」に匹敵するものだった。特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として人気球団の巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた[25]

[編集] 北海道時代

  • 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロサッカーJリーグコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使っていた(札幌厚別公園競技場と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で[26]、球団事務所もそれぞれ札幌ドーム内に併設されている。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
  • 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で3塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が3塁側からの方が見易いため、ホームチームが3塁側ダグアウトを使う。ホームチームが3塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(東京ドーム等の他球場で主催試合を行う時は1塁側ダグアウトを使用)。
  • ニューヨーク・ヤンキースとの交流や、アリゾナ・ダイヤモンドバックスサンディエゴ・パドレスとの業務提携など、比較的多くの外部接触を持っている。地元の北海道との関係についても、積極的な球団である。これは、北海道という広大な土地で、球団により親しんでもらおうという球団の戦略である。ファイターズの球場外での活動としては以下のようなものが挙げられる。
    1. YOSAKOIソーラン祭り等の地域文化活動への参加
    2. OB、北海道出身選手による毎週末のコーチングキャラバン
    3. B.Bイベント出張
    4. ファンから年賀状を一般募集、選手と食事会
    5. 選手達の学校訪問
    6. 練習施設の一般公開
    7. HNFベースボール・クラブ(後述。オフシーズン中に行う、中学3年を対象にした週1回の野球塾)
    8. オフィシャルショップ、レストラン建設
    9. 「旬感!北海道」という道内のJAと連携し、北海道の農産物をお取り寄せ、農家に還元というサイトを球団に設置(2009年1月現在停止中)
    10. 「選手ディナーショー」や野球界初となる球団マスコット「BBのディナーショー」を毎年札幌グランドホテルで開催。
    11. 道内各地で選手のトークショーを開催(2006年より)
    12. 先述の「なまら!チケット」等の道民優遇特典
    13. ファイターズガールがJR帯広駅東コンコース特設会場でダンスパフォーマンス、記念撮影。またみどりの窓口と改札担当係員は、日本ハムのユニフォームを着て接客
    14. 北海道スポーツ振興のための基金「ファイターズ基金」を設置。
  • また、日本プロ野球初の公式ファンクラブや着ぐるみのキャラクター導入など、新しい演出をする球団であり、札幌移転後は大幅な観客増を達成したことから、しばしば他球団が類似の企画を発表することがある。例えば東北楽天も「730チケット」に倣った「おばんですチケット」を販売、西武は「740チケット」、「なまら!超割チケット」に倣った、所沢市民応援デーを実施している。
  • 公式チアガール(ファイターズガール)には、下部組織があり、10代から20代までを対象にダンス、パフォーマンスの英才教育が行われている。

[編集] チームのスローガン

1993年:「はつらつベースボール」
1994年:「はつらつベースボール Part2」
1995年:「Aggressive&Dramatic」
1996年:「更なる挑戦」
1997年:「大いなる挑戦」
1998年:「乾坤一擲」
1999年:「Vへ一丸!」
2000年 - 2002年:「Be tough,Stay tough,Win tough」
2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜
2004年:「New Home,New Identity,New Dreams.」
2005年:「Faith,Hope,Love The Game」
2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」
2007年:「Focus,Advance,Nexus Spirit」
2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜
2009年:「Re:Challenge」
2010年:「Feel it !」
2011年:「ONE_1」
2012年:「9+ NinePlus」

[編集] 応援スタイル

[編集] 東京時代

1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)[27]

トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。

1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。

[編集] 北海道時代

札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには『北の国から』、得点が入った時のテーマが「I'm A 北海道MAN」の「おーいおーい北海道」の部分など地元をイメージした応援歌になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使えなかった太鼓が札幌ドームで使用可能となり、ホームゲームでも太鼓を使うようになった[28]
なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。2011年途中から諸事情で歌唱の入っていないカラオケバージョンになる。

東京ドームなど関東の球場でも応援するために、札幌移転後も東京の応援団は存続している。このため東京のファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われ、2007年から東京ドームでの試合のみ、ホーム・ビジター試合を問わず全試合で、東京ドーム本拠地時代の応援スタイルを使う(ただし、移転後にできた「北の国から」等のチャンステーマを使う時もある)。

ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。

2007年後半から、鳴り物が禁止されている宮城球場の試合で、宮城球場限定の鳴り物なしでの応援スタイルとチャンステーマを取り入れた。2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌[29]札幌ドーム限定で「ジンギスカン[30]2010年は、沖縄限定で『ハイサイおじさん』、東京ドーム限定でかつての球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』と、地域別あるいは球場別でチャンステーマを取り入れている。

北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。

札幌ドームの試合等、北海道での試合では、日本ハムの投手3ボールになって、カウントを悪くしてしまうと、投手を応援する為の拍手が自然に起こる。

現在の札幌ドーム、以前の東京ドームとジェット風船を禁止している球場を本拠地としている為、ビジター・地方球場でもジェット風船を飛ばすファンはいない。しかし、2011年6月12日の対横浜戦のみ札幌ドームで初のジェット風船が飛ばされた。

試合後、日本ハムが勝った場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から金色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う[31]。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすいスタイルになった。(札幌ドームのみ)。2011年からは金テープのバズーカから勝利の花火に変更された。

稲葉の打席では「稲葉ジャンプ」と呼ばれるジャンプが起こる。なお、2011年は東日本大震災の被災者に配慮してシーズン中は自粛していたが、クライマックスシリーズで復活した。金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。

ファイターズガール(公式チアガール)のレプリカユニフォームを球団が販売している。ファイターズガールのユニフォームに似せた服を娘に着せて応援していた、ある家族連れの姿が、グッズとしてのレプリカユニフォームを製作するきっかけになった。

[編集] ビニール風船を使った応援

2005年ごろから特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。

  • 小笠原道大(2005 - 2006年):イルカ - 一時期、札幌市内と近郊の100円ショップからイルカの風船が消えるまでになった。
  • セギノール(2005 - 2007年):バナナ
  • 森本稀哲(2007年 - 2010年):緑色のマイク。これは森本本人がヒーローインタビューで歌ったりするなどマイクパフォーマンスに長けていることからファンの有志が考案したものが広まったもので、札幌ドームの近所のファンが集まるラーメン屋で5000個作られて販売されたものである。
  • 田中賢介(2008年 - ):人差し指だけ伸ばしたピンクの手
  • スレッジ(2008年 - 2009年):ハンマー
  • 鶴岡慎也(2008年 - ):鶴または、ガチャピンのバット - 札幌では鶴が普及している。

しかし、風船を使って席取りをする観客がいるなど、他の観客からの苦情や批判も多く、球団は札幌ドーム外野前列の自由席を減らすなど対応し、2009年シーズンからは風船を使った応援は減少傾向にある。

また、上記のグッズのうち森本のマイクと田中賢のピンクの手はあくまで「非公認グッズ」であり、「売上金の一部を寄付」と唱っている商品もあるが、不明な点が多い。販売元は球団より販売中止要請を受けてもなお販売し続けているが、球団も公認グッズとして「ピンクビッグハンド」を発売した。こちらは淡いピンク色で開いた手の形をしており、非公認のものよりも値段を抑えている。

なお、札幌ドームと東京ドームの主管試合ではジェット風船を膨らませての応援が禁じられている。理由は、札幌ドームはバックスクリーン奥にあるサッカー・ラグビー用天然芝ピッチの出し入れに必要な隙間に風船が挟まって移動に支障をきたす恐れがあるためで、東京ドームはエアドームなので空気圧の膨張で風船が割れる恐れがあるためである。なお、札幌ドームでは2011年6月12日の対横浜ベイスターズ戦に限り、ジェット風船の使用が許された。(ただし衛生の観点から口から膨らますことは禁止され、専用ポンプを使っての応援のみ認められていた)

[編集] コント映像集

2006年と2007年の札幌ドーム東京ドームの主催試合では、7回表のビジターチームのラッキー7の際に、バックスクリーン右のモニターに、各球団を揶揄したコント風の映像が流されたことがあり、以下の他にもいろいろな映像が流された。

西武ライオンズ
  • ライオンになる(2006年版)。
  • 伊東監督(当時)が百獣の王ライオンになろうとしたら、顔がミスタードーナツポン・デ・ライオンのような風貌になってしまい、「熊出没注意」ならぬ「獅子出没注意」が画面に出てくる(2007年版)。
  • ライオンと選手がトマトラーメンが売り物の「けらあん」で「北海道はうまい食べ物が多いなぁ〜」とラーメン、寿司ジンギスカンと次々と食べておかわりしていくが、最後に「ハム食い忘れた!」と気がつく。
福岡ソフトバンクホークス
  • 飛んでいる鷹がいつの間にかB.Bが持っている鳥かごに入ってしまう(2006年版)。
  • ホークスと同じソフトバンクグループのソフトバンクモバイルのCMのパロディ。松中信彦が架空の選手ホワイトを紹介。何を言っているのかさっぱり分からないホワイトに和田毅が身長を尋ねると、190cmと答え、和田も「セリフ違うぞ!月980円とか言わないと…」と返す。そのホワイトの正体はファイターズのグリンで、最後に王監督が首を引っ込める(2007年版)。
  • ハリー・ホーク風のキャラクターが主人公のスーパーマリオブラザーズ風の画面。パ・リーグ4球団を模した敵キャラや障害を乗り越え、最後に上げたチャンピオンフラッグにはファイターズの旗がついていた(2007年版)。
千葉ロッテマリーンズ
  • 白いカモメを黒く塗ってカラスにしてしまう(2006年版)。
  • 白いカモメが自ら北海道へ飛んでいってしまい、「やっぱ、北の大地は最高だわ〜」と言う(2006年版)。
  • 白いカモメの群れが飛ぶ中でソーラン節の歌詞が出て、「打倒ガム」「日ハム丸」の文字が入った大漁旗が出る(2007年版)。
  • マリーンズやロッテの製品に関するカルトクイズ。3問出題され、全問正解者には「あなたは立派なマリーンズファンです」と持ち上げるが、1問でも間違えたら「ファイターズファンになりましょう」と勧誘する(2007年版)。
  • 千葉県名物の落花生を引き合いに出し、「落下傘にならないよう注意してください」とのオチ。(2007年版)。
  • マリーンズの開幕戦ポスターのハム入り大型ハンバーガーに「でも食べ残してますよ…」とツッコミを入れ、「イチバンデ〜ス!って言ったのは、うちの監督がイチバンデ〜ス!」に対しては「ヘェ〜…」と返して、前年の日本一のペナントに対しては「そのフラッグは貸しているだけ。すぐに返していただきます」と要求すると、「返せそうにないですね!」と返す(2007年版)。
オリックス・バファローズ
  • 暴走する猛牛がパ・リーグ4球団のマークを突き飛ばすが、ファイターズのマークだけは突き飛ばせない(2006年版)。
  • 牛同士が囲碁で勝負するが、盤面に日本ハム側の白い石でファイターズの「F」という文字が浮かぶ(2007年版)。
  • 牛が落語家「猛牛亭牛スジ」としてテリー・コリンズ監督に関した小噺(ユウコリンとの関係)を披露するが、ウケずに終わる(2007年版)。
  • 牛が「がんばれ〜バファローズ!!」「奇跡を呼び込む男、笑顔で決めろ…」「かなりええ感じやな…」「いてまえ〜」とたこ焼きを作っていくが、焼き上がるとファイターズのマークが付いたものになっており、「無理やりやん!こんなオチないで〜」と憤慨して、「来年もくるで〜」と吐き捨てる。
東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 野村監督流鏑馬でファイターズのマークを射るが、外してしまう(2006年版)。
  • 野村監督が居眠りをして胴上げされる夢を見るが、実際はヒルマン監督(当時)が胴上げされている(2006年版。この年はファイターズが優勝したため、最終的に正夢になった)。
  • 武田勝等のシダックス野球部出身者が野村監督のお礼参りで楽天戦で大活躍、今日も活躍することで野村監督に恩返し(2006年版)。
  • 野村監督が嶋基宏に「キャッチャーは、ささやき戦術で相手バッターを惑わすこともせんとな…」と教えたが、打席に立ったのは日本語が通じないセギノール(当時所属)。当然嶋はどう声を掛けたらいいか分からず、投手へのサインを決められない。しまいには12秒ルールで審判からボールが宣告され、首をかしげる野村監督だった(2007年版)。
  • 野村監督が運を天に任せるという発言をしてパチンコ「海物語」風のリーチ画面に。天の文字が3つ揃うが、「走った」という表示で再抽選になりファイターズのマークが揃う(2007年版)。
中日ドラゴンズ
  • 名古屋城のしゃちほこの顔がB.Bになっている(2006年版)。
  • 「オレは昔プロを目指してたからな」と落合監督ボウリングストライクを連発、パーフェクトにリーチがかかる。「勝負の方程式でパーフェクトだ!」とボールを投げるが、ピンを1本残してパーフェクトを逃してしまう。その残ったピンにファイターズのマークが描かれている(2007年版)。
阪神タイガース
  • 紙相撲でタイガースとファイターズのマークを付けた力士が戦い、ファイターズが勝利、ファイターズのマークが付いた座布団が舞う(2006年版)。
  • B.Bとトラッキーのパペットが札幌ドーム前でタカアンドトシ風の漫才をする(トラッキーがタカ、B.Bがトシ役)。しばらくすると札幌ドーム付近に激しい揺れが起こり、地震かと思ったら「稲葉ジャンプ」をするファンが震源だったので、2人で「稲葉か!」と突っ込む(2007年版)。
東京ヤクルトスワローズ
  • 東京音頭に合わせ、たくさんの傘が上下に踊る画像が流れ、それらを上から見た画像がズームアウトすると"FIGHTERS"の文字が見える(2006年版)。
  • フジテレビで現在放送中の、『ネプリーグ』のファイブツアーズのような形式で、LEVEL1「占冠(しむかっぷ)」→LEVEL2「興部(おこっぺ)」→LEVEL3「花畔(ばんなぐろ)」といった北海道の地名の読み方クイズが出題される。そして、「どうでした?」→「ゲーム中の考えすぎには注意してください」→「最後に勝つのはファイターズ」と結ぶ(2007年版)。
読売ジャイアンツ
  • インベーダーゲームに似た映像が流れ、B.BがUFOから発射した弾で自機がやられてゲームオーバーになるが、"GAME OVER"の「G」がジャイアンツのロゴの「G」になっている(2006年版)。
  • 都市伝説という名の童話・「ウサギとカメ」のパロディ。巨人のキャラクター・ジャビット(ウサギ役)と亀が競走して、独走だったジャビットは余裕綽々で「紳士の身だしなみ」としてひげを剃る(巨人に移籍してヒゲを剃った小笠原道大を意識している可能性もある)が、その間に亀がジャビットを抜いて勝った。「こつこつ最後まで一生懸命歩いたカメ君が先にゴールしました」→「そして、そのカメは羊ヶ丘で札幌ドームになりました」とナレーションが出て、その亀が札幌ドームに変身する。(2007年版)。
広島東洋カープ
  • 1塁ベースを投げるブラウン監督の映像を映し、「ベースの行方にご注意ください」というメッセージを流す(2006年版)。
  • が熊に食べられる(2007年版)。
横浜ベイスターズ
  • 横浜の夜景に輝く星にどこからかファイターズのマークが飛んでぶつかり、星がファイターズのマークでもある七芒星になる(2006年版)。
  • ヒット商品の製作にあたって、まずリーゼント型ヘルメット(これは三浦大輔の髪型をモチーフとしている)を提案するが、機能的ではないと却下。次に「遠くのモノも楽々取れるマジカル・レッグ」が提案されたが、これは種田仁(当時所属)のガニマタ打法をモチーフとした、玩具のマジックハンドのようなもので、足でFのマークが入ったボールをキャッチ(2007年版)。

[編集] ラッキー7を6回裏に

2009年より、日本ハム主催試合ではファイターズのラッキー7を6回裏に行う事になった。これは、6回の得点が7回よりも多いことなどから、ラッキー6としたものである。[32]同時に、2008年までラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、ラッキー6のBGMとして、4月は「ファイターズ讃歌[33]を、また5月1日の埼玉西武戦からは「ファイターズ賛歌」に代わり新応援歌「La La La FIGHTERS」を流している。

場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流している。

なお、ファイターズの7回裏には逆に何のイベントもなくなり、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行っている。ただし札幌ドームのみ、B☆Bバズーカを6回表終了から試合開始前(2009年は7回表終了時)に移動した。

[編集] チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本一を示す。
  • リーグ優勝 5回 (1962年、1981年※、2006年 - 2007年、2009年)
  • 日本一 2回 (1962年、2006年)
  • クライマックスシリーズ優勝 2回(2007年、2009年)
  • アジアチャンピオン 1回 (2006年)
  • セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)
  • Aクラス 26回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年)
  • Bクラス 40回 (1946年 - 1958年、1960年、1968年 - 1977年、1984年 - 1986年、1989年 - 1992年、1994年 - 1995年、1997年、1999年、2001年 - 2003年、2005年、2010年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)
  • 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)
  • 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)
  • レギュラーシーズン1位 3回 (2006年 - 2007年、2009年)
  • 最長連勝 14連勝 (2007年)
  • 最多勝 83勝 (1961年)
  • 最多敗 80敗 (1956年)
  • 最多引分 13分 (1984年)
  • 最高勝率 .642 (1961年)
  • 最低勝率 .364 (1955年)
  • 最小ゲーム差 1.0(優勝:2006年)
  • 最大ゲーム差 48.0ゲーム(最下位:1956年)

※1981年の優勝はロッテとのプレーオフによる。

[編集] その他の記録

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  • シーズン最多得点 771点(2000年)
  • シーズン最多安打 1370本(2009年)
  • シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最多三塁打 56本(1961年)
  • シーズン最多本塁打 178本(2004年)
  • シーズン最少本塁打 40本(1955年)
  • シーズン最多打点 735打点(2000年)
  • シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)
  • シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)
  • シーズン最多三振 1151三振(2005年・日本プロ野球記録)
  • シーズン最高打率 .281(2004年)
  • シーズン最低打率 .216(1956年)
  • シーズン最高防御率 2.39(1961年)
  • シーズン最低防御率 4.98(1984年)
  • シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年・パリーグ記録)
  • ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)
  • ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対東北楽天ゴールデンイーグルス)
  • ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対千葉ロッテマリーンズ、2009年4月19日対埼玉西武ライオンズ・パリーグ記録)
  • ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)
  • ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日オリオンズ)
  • ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)
  • ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)
  • ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)
  • 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテオリオンズ10回表・日本プロ野球記録)
  • 4者連続二塁打(2009年7月29日対千葉ロッテマリーンズ1回表・パリーグ記録)
    • 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)
  • 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島東洋カープ1回戦から6月3日対東京ヤクルトスワローズ3回戦まで・日本プロ野球記録[34]
  • 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日ドラゴンズ2回戦6回裏から6月4日対東京ヤクルトスワローズ4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録[35]

[編集] 歴代本拠地

※1 1953年8月まで後楽園球場を使い、同年9月より駒澤野球場へ移転。
※2 学生野球などで使えない場合は後楽園などを使った。ただし、1964年-80も後楽園で他球団の試合が行われ、かつスワローズ・アトムズの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮を使用している

[編集] 歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 この年のみセネタース
※2 ここから東急フライヤーズ
※3 1948年のみ急映フライヤーズ
※4 1954年から東映フライヤーズ
※5 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代行
※6 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代行
※7 1973年から日拓ホームフライヤーズ
※8 シーズン後期のみ指揮
※9 ここから日本ハムファイターズ
※10 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代行
※11 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代行
※12 ここから北海道日本ハムファイターズ
※13 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代行

[編集] 主な出資企業

現在の本拠地移転にあたり2003年8月に設立した運営会社「株式会社北海道日本ハムファイターズ」には、元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。

[編集] グランドパートナー

[編集] ゼネラルパートナー

[編集] ユニフォームの変遷

[編集] 東京時代

  • 1946年 最初のユニフォームは阪急からのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、阪急の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
  • 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
  • 1948年 - 1949年 大映球団と合併し急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
  • 1949年 球団が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。胸マークには、熊のマスコットが描かれている。
  • 1950年 2リーグ分裂を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
  • 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞が初登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
  • 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団が東映となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。
  • 1961年 - 1967年 水原茂監督就任に伴い、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。左袖には親会社の東映マークに「TOEI」のロゴが入る。
    • ホーム用は「FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。
    • ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「TOEI」から「TOKYO」に変更される。
      • 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「TOEI」に戻る。
  • 1968年 大下弘監督就任に伴い、赤と青を基調としたユニフォームに変更。帽子は紺色になり、Fマークが変わる。袖、パンツ、ポケットには赤・青の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。また、Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。
  • 1969年 - 1971年 松木謙治郎監督就任により、モデルチェンジ。赤と紺を基調としたものになる。
  • 1972年 田宮謙次郎監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子はTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく。背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。
    • なお、東映時代6年間のユニフォーム約600枚が、日本ハムになっていた1979年に原宿古着屋で売られていた。全て背番号入りの本物、一律2900円でその後も10年ぐらいの間売り続けていた[36]
  • 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来どおりで、帽子のマークがNとFの組み合わせとなり、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。
  • 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。(#7色のユニホームを参照。)
  • 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークと左袖には親会社のブランドマークと「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。
    • ホーム用は紺(縁取り:赤)の「Fighters」ロゴ。背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。
    • ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。選手名、胸番号は無し。帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。
  • 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。基本カラーが青とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。
    • ホーム用は薄いブルーのストライプ、胸ロゴ、背番号、胸番号は青にオレンジの縁取り。
    • ビジター用はスカイブルー地の色合いが変り、紺のストライプ、胸ロゴは白(縁取り・オレンジ)になり、帽子、ストッキングがホーム、ビジター共通になる。
    • 1975年から首、腰のラインがオレンジ一色となる。
    • 1978年から背中に選手名が付き、これまで背中いっぱいについていた背番号の文字が、大幅に小さくなる。
    • 1979年からベルト式にかわり、シーズン途中の7月4日より、ビジター用の「Nippon Ham」のロゴ、背番号の色が逆転し、オレンジ(縁取り白)に変更。
  • 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした[37]。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。帽子のマークが白抜きの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。
    • ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「ニッポンハム」。
    • ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「Nippon Ham」。
      • 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなる。
  • 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴが「Fs」になる。
    • ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。
    • ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。
      • 2001年からは右胸にニッポンハムの広告が入るようになる。

[編集] 北海道時代

  • 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったデザインとなっている。ちなみにデザインは同年入団したSHINJOが担当した。
    • ホーム用は、「FIGHTERS」、右袖ロゴは「NIPPON-HAM」。
    • ビジター用は、上下グレーで「NIPPON HAM」、右袖ロゴは「HOKKAIDO」。
    • 2005年シーズン後半 大社義規前オーナーが死去に伴い、右腕に喪章として黒いラインが入る。
    • 2006年からユニフォームスポンサーのホクレンのロゴが右肩に入った。
      • パリーグレギュラーシーズンの着用に限られ、交流戦、オールスター、日本シリーズなどの試合では使用できない。
  • 2007年 8月17日 - 19日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入り、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。
  • 2008年 7月22日 - 27日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2008」と銘打ち、6連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年と同じだが、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。
  • 2009年 札幌円山球場で6月10日に行われた対横浜ベイスターズ戦を除く道内地方開催の全試合と、9月11日 - 13日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」と銘打ち、限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるラベンダーカラー(薄紫)を採用。帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。
なお、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」の対象試合は以下の通り。
  • 2010年 7月9日 - 11日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。帽子は本体が青、つばが黄金色。なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広、旭川の計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。
  • 2011年 - 「HOKKAIDO PRIDE~北海道の誇りを胸に~」と銘打ち、ユニフォームデザインを一部変更。帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったニトリのロゴが入る。また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。
  • 7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、ビジターユニフォームを着用して行った。さらに、9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらもビジターユニフォームを着用して行った。
備考
  • 台湾プロ野球の中信ホエールズは札幌移転した日本ハムを意識して、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。
  • 他球団が行っている復刻ユニフォームといった企画は現時点ではパ・リーグ唯一公式戦では行っていない(2005年に新規参入した楽天を除く)。但し、2005年に円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。

[編集] ファーム

  • ファーム用も原則的には1軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。
  • 2010年 - ファームのユニフォームを一新。1軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K」。

[編集] 球団旗の変遷

[編集] 東京時代

  • 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。
  • 1947年 - 1949年:球団名が東急フライヤーズとなる。上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。赤の部分に白字で「F」。
  • 1950年 - 1973年:2リーグ分裂を機に球団旗を変更。右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。青の部分に白字で「F」。東急、東映、日拓ホームと親会社が変わっても継続して使用される。
  • 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。橙色地に白のライン。白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ。その下に「Fighters」ロゴ。
  • 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。

[編集] 北海道時代

  • 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。白地にペットマークの七芒星。下の部分は黒地に「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。

[編集] 永久欠番

過去、永久欠番制度と該当者が不在だったが、2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規初代オーナーである。また、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として000の使用をやめ、永久欠番とすることも決定された。

永久欠番一覧
  • 0 球団永久欠番 
  • 00 球団永久欠番
  • 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
準永久欠番(非公式)
  • 79 小林繁(元コーチ。2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。これに伴い小林を称えて当分の間欠番扱いとなる)
  • 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない)

[編集] マスコット

熊のマスコット(正式名称不明)
東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。
帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明)
東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったペットマークを採用。球団発行印刷物に使用されていた。
ギョロタン
球団の着ぐるみマスコット第1号。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。自転車が得意だった。晩年にはスクーターで走ることが多かった。
ファイトくん
1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。
ファイティー(100)
1993年に登場した、東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。英語表記は「FIGHTY」。大社義規オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後も2004年・2005年は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。2005年8月17日に現役引退。この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。
B・B(ブリスキー・ザ・ベアー)(212)
愛称「B・B(ビー・ビー)」。2004年の球団北海道移転とともに登場。英語表記は「BRISKY THE BEAR」。モチーフは熊で、背番号212は球団北海道移転当時の北海道の市町村数にちなむ。
カビー(カビー・ザ・ベアー)(337)
B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。英語表記は「CUBBY THE BEAR」。ユニフォームの背中には「C★B」と書かれているが、「シービー」とは呼ばず「カビー」である。

[編集] 歴代の球団歌

日本ハム時代以降

[編集] 年度別イメージソング

球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。

  • 1993年「WILD DREAM」 (作詞:石岡美紀 作曲:パンタ 歌:立川亮子
  • 1994年「Let's Get A Groove 〜Yo! Hips〜」 (作詞・作曲・歌:久保田利伸
  • 1995年「Get the Truth!」 (作詞・作曲:長友仍世 歌:INFIX
  • 1996年「あの瞳を忘れない」 (作詞:沢村大和 作曲:野中則夫 歌:BLOW
  • 1997年「太陽」 (作詞:TSUNAMI 作曲:パッパラー河合 歌:TSUNAMI
  • 1998年「Let Love Shine」 (作詞:萩原由美子 作曲:小松建祐 歌:水野由加里
  • 1999年「プラスのスマイル!!」 (作詞・作曲:永井ルイ 歌:CLOVER
  • 2000年「輝け!未来へ~Hit & Run~」 (作詞:門屋陽平 作曲:石川寛門 詞・曲・歌:速水けんたろう)

以下の2曲は、中日出身である大島康徳の監督就任を記念して中日ファンの山本正之がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。

  • 2001年:「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之
  • 2002年:「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)

[編集] 主なキャンプ地

[編集] キーワード

[編集] 放棄試合第1号

1946年9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、選手は球場近くの宿舎で試合に備えていた。しかし、球場付近が晴天であるにも関わらず宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかった。これが放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。これは試合放棄の実質的な「第1号」である[38]

[編集] 深夜のダブルヘッダー

1953年8月9日の対近鉄パールズ戦(後楽園球場)のダブルヘッダー第1試合は17時から開始された。試合は両軍同点のまま決着がつかず、延長20回・試合時間は4時間46分の末に4-5で敗れた。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限が無く、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22時11分に開始されたが、7回裏終了時点で当時のナイター時限だった23時45分が過ぎたため、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくてもそのイニングの攻撃が完了した時点でコールドとなる当時のルールによるものである。

1954年10月10日の対近鉄バファローズ戦(大阪球場)で、今度は延長23回のパシフィック・リーグ延長イニング最長記録を作ったが、近鉄にサヨナラ負けを喫した。また、1981年10月10日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場・プレーオフ第1試合)では、9回・5-5の引き分けだったが、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。

現在ではルールが改定され、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20時40分を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。

[編集] 日本シリーズで2人のMVP

1962年の日本シリーズ(対阪神タイガース戦)を4勝2敗1分で下して優勝したが、MVPは土橋正幸種茂雅之の2名が選出される異例の事態となった。この時はMVPの賞品が協賛スポンサーの関係から多くなったことや、両選手の活躍が優勝に大きく影響したともいわれている。ちなみに土橋には自動車、種茂には家電製品が分け合えられたという。この「MVP2名選出」はこの年だけだった。

[編集] 7色のユニフォーム

1973年に東映フライヤーズを買収した日拓ホームのオーナー・西村昭孝は、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期リーグで7種類のユニフォームを作り、選手に日替わりで着用させる画期的な試みを行った[39]。その7種類とは以下のとおりである。

ホーム用
  • 全身がオレンジで、袖にラインが入る
  • 肩から袖の下、パンツまでオレンジの太いラインが入る
  • 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白
  • 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る
ビジター用(全身を一色で統一)
  • 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン
  • 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン
  • 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白

しかし、シーズン終了後に再身売りしたため、この7色ユニフォームは3ヶ月でお蔵入りとなった。後年、綱島理友の取材により、当時のチーム在籍者から次のような証言が得られている(いずれも、2005年発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に掲載)。

監督・土橋正幸

「ダブルヘッダーの第1試合で勝ったユニフォームをゲン担ぎのため第2試合でも着ようと思っていたら、球団から『せっかく7種類も作ったんだから別のユニフォームで戦ってほしい』と言われた」

投手・新美敏

「先発ローテーションに入っていたので、どれか忘れたが1種類だけ(自分が)着ていないユニフォームがある」

外野手・千藤三樹男

「球団で予備のユニフォームを用意していたため、番号違いで試合に出た選手はいたかもしれないが、どのユニフォームを着るか選手の間で混乱したという覚えはない。それよりも当時は阪急が優勝争いに加わっていたので、西宮での阪急戦では悪役に徹するために黒いユニフォームで試合をしたことが印象に残っている」

[編集] 一試合で全ポジションを守る

1974年9月29日の対南海ホークス戦(後楽園球場)で、高橋博士が「1試合で全ポジションを守る」日本球界初の珍記録を作った。当時、後期リーグは既にロッテオリオンズが優勝を決めた後の消化試合だったため、ファンサービスを考えた中西太は、内野手の経験も持つ高橋に全ポジション挑戦をするように企画した。

1回から一塁手捕手三塁手遊撃手二塁手左翼手中堅手右翼手投手の順番で守備に就いた。しかし高橋にとって投手は初経験だったので不安があると考えた中西は、野崎恒男の打席で登板を指示。1ストライク2ボールから中飛に仕留めたところで「投手は1人だけで充分」と降板した。

[編集] オールスター組織票問題

1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めた[40]

この年の日本ハムは、前期がリーグ3位ながら29勝31敗5分と負け越しているにも関わらず、投票期間中の7月6日-7日に約7万票が日本ハムに入ったため結果が大きく変わった。この事が報じられると各界著名人から批判が巻き起こったが、それに応える形でフロント陣が、オールスターゲームの第3戦が日本ハムの主催試合となることから、ファンクラブ「少年ファイターズの会」会員にダイレクトメールでオールスターのファン投票用紙を5枚セットで送ったことを悪びれずに公表した。

各界著名人から「組織票」と批判されると、日本ハムフロント陣は前言を撤回して事態の沈静化を図り、特に成績が悪かった古屋と菅野の出場辞退を発表した[41]。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は引退までオールスターに出場することはなかった。

[編集] 野球用具未着で中止

1979年7月13日、対戦相手の南海ホークスは前日に近鉄とナイターを行い、当日移動で後楽園球場での試合に臨む予定だった。ところが、日本坂トンネル火災事故の影響による渋滞に巻き込まれて野球用具が球場に到着せず、代替品を調達することも出来ないため、やむなく試合を中止した。

[編集] 日本シリーズ全試合が同一球場

1981年の日本シリーズは対読売ジャイアンツ戦だったため、同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦となり、史上初めて全試合が同一球場で行われた(第1戦の始球式は、東京都知事だった鈴木俊一が行った)。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。当時監督だった大沢啓二は、後楽園の社長から「大沢がもう少しやれば、7戦できた」と愚痴を聞かされた。

[編集] ストライキが影響したプレーオフ進出

北海道に本拠地を移転した2004年は、同時にパシフィック・リーグのプレーオフ制度が設けられた年でもあった(それ以前にもプレーオフ制度はあったが、勝率を問わずAクラス3チームが出場できるプレーオフ制度は初である)。

2004年のシーズン終盤、日本ハムはロッテと「残り1チームのプレーオフ進出権」を賭けた3位争いをしていた。日本ハムの最終戦前日の9月23日の時点でロッテは全試合終了しており、両チーム共に成績は65勝65敗、勝率.500の同率3位だったため、最終戦となった9月24日の対オリックス・バファローズ戦の勝敗次第で、どちらのチームがプレーオフに進出するか決まることになっていた。結果として日本ハムが最終戦に勝利したため、ロッテと僅か0.5ゲーム差の3位となり、プレーオフ進出を果たした。

しかし、2004年はプロ野球再編問題が起こった年でもあった。選手会はこの問題で9月18・19日の2日間、計12試合をストライキしたため、日本ハム、ロッテ共に2試合がストで中止となった。その後、この中止試合の代替試合を行うかが焦点となっていたが、ストの意義を半減させない選手会の意向で代替試合は行われなかった。したがって、ストライキ中止試合が代替試合として行われた場合は、その試合結果によっては両チームの順位、及びプレーオフ進出チームがロッテと入れ替わっていた可能性もあったため、ストライキは日本ハムのプレーオフ進出に大きな影響を与えた。

[編集] 延長継投ノーヒットノーラン

2006年4月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で、先発の八木智哉はソフトバンク打線を9回まで無安打無得点に抑えたが、味方打線の援護がないまま延長戦に突入した。八木は10回も無安打無得点で切り抜けて降板したが、11回裏を武田久、12回裏をMICHEALが守り切り、12回表に取った1点を守りきって、日本ハムが勝利した。

八木自身にはノーヒットノーランどころか白星も付かなかったが、武田・MICHEALと共に、日本プロ野球では1941年以来65年振り、2リーグ制以降初の継投によるノーヒットノーランを達成した。過去の継投によるノーヒットノーランはいずれも9回までに2人の投手によって成し遂げられており、延長戦かつ3投手の継投で達成したのは史上初である。

[編集] 変則2連戦

2006年7月29・30日に行われた対福岡ソフトバンクホークス戦は、札幌ドームがSMAPのコンサートで使えなかったこともあり、29日は函館オーシャンスタジアム、30日は東京ドームに移動して2連戦をこなした。このように距離の離れた2都市(北海道函館市東京都文京区)で同じ対戦カードの連戦が行われる事例は、シーズン終盤の予備日を利用して遠方チーム同士のホームとビジターが移動日なしで入れ替わる場合のようなケースがほとんどである。したがって、シーズン当初から組まれたこのような日程の事例としては2004年6月15・16日の福岡ダイエーホークス対大阪近鉄バファローズの2連戦(15日が東京ドーム、16日が福岡ドーム)以来のケースである(福岡ソフトバンクホークス#東京での主催遠征参照)。

[編集] HAMの方程式

2006年、日本ハムは12球団トップのチーム防御率3点台前半を記録する。この年はダルビッシュ有や、新人王を獲得した八木智哉などの活躍も光ったが、チーム防御率向上にはリリーフ陣の活躍があった。特に武田久とマイケル中村の2人の名前を取ってHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)(親会社の日本ハムに引っかけた)と呼ばれた[42]。武田久は球団新記録の75試合登板を記録、さらにリーグトップのホールドポイント数で最優秀中継ぎ投手を獲得し、マイケルはリーグ新記録の39セーブ(パ・リーグ史上最高記録)を記録し、最多セーブ投手を獲得した。

また、岡島秀樹が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。

[編集] 9人のヒーローインタビュー

2008年4月8日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で、打線の奮起で7点差をひっくり返して逆転勝ちし、球団史上最多の野手9人(森本稀哲田中賢介稲葉篤紀高橋信二ターメル・スレッジ小谷野栄一工藤隆人鶴岡慎也高口隆行)が試合後のお立ち台に上がった。この9人は先発だった武田勝を除いた当日のスターティングメンバー全員で、インタビューでは9人全員が1人一言ずつコメントしていた。

試合は、武田が2回表に一挙7点を奪われて降板するなど、序盤から苦しい展開だった。しかし、3回裏に突然乱れた楽天先発の一場靖弘を攻め、稲葉、高橋、小谷野の適時打などで5点を返すと、4回裏に田中の本塁打で追いついた。そして6回裏に無死2塁の場面で高口がバントを空振りし、走者の鶴岡が飛び出してアウトかと思われたが、遊撃手が投げた球が鶴岡の背中に当たってしまい、球がそれる間に鶴岡が生還して逆転した。その後そのまま逃げ切り、8-7で逆転勝ちした。

[編集] 雨天中止試合なしのシーズン

2008年の日本ハムは、全144試合を雨天順延せず消化した(コールドゲームノーゲームもなし)。

本拠地が札幌ドームであるほか、パシフィック・リーグには屋外球場を本拠地とする球団の方が少ない(千葉ロッテマリーンズ東北楽天ゴールデンイーグルスのみ)ため、屋内での試合が多い(2008年は全144試合中の104試合が屋内)とはいえ、全試合を日程通り終えたことは極めて稀で、21世紀以降は全12球団を通して初である。

[編集] 安打による得点の無い大勝試合

2009年4月16日の対オリックス・バファローズ戦(札幌ドーム)は7-1で勝利したが、その7得点はオリックス野手の失策や1死と引き換えに挙げたものがほとんどであり、安打(適時打本塁打)による得点は無かった。適時打や本塁打なしでの7得点は非常に稀である。

なお、敗れたオリックスの1点は、タフィ・ローズの先制本塁打で、安打による得点である。

この試合の得点詳細
イニング 状況 打者 結果 得点 備考
2回裏 無死一・三塁 二岡智宏 二塁手へのゴロ 1点 併殺崩れの間に三塁走者の小谷野栄一が生還。
一死満塁 田中賢介 二塁手へのゴロ 1点 併殺崩れの間に三塁走者の二岡が生還。
二死二・三塁 森本稀哲 三塁手失策 2点 北川博敏が処理したゴロを一塁に悪送球し、三塁走者のルイス・ヒメネスと二塁走者の田中賢介が生還。
4回裏 無死満塁 田中賢介 暴投 1点 中山慎也の暴投で三塁走者の二岡が生還。
無死二・三塁 同上 犠牲フライ 1点 三塁走者のヒメネスが生還。
6回裏 二死一・三塁 稲葉篤紀 重盗 1点 一塁走者の森本が二塁へ盗塁し、捕手辻俊哉が二塁に送球する間に三塁走者の金子誠が本塁へ盗塁して生還。

[編集] 52イニング連続無失点

2011年の交流戦で、5月26日の5回裏途中から登板した石井裕也が、6回裏にも登板して無失点に抑えて以降、6月4日の先発吉川光夫が、2回裏までを無失点に抑えた事により、日本ハムはプロ野球タイ記録に並ぶ52イニング連続無失点、および5試合連続完封勝利を収めた。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9
日本ハム 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
中日 1 0 2 0 1 0 0 0 X 4
  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
広島 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
日本ハム 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1X 1
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
広島 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
日本ハム 0 0 0 0 1 0 0 0 X 1
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
阪神 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
日本ハム 0 0 0 2 0 0 0 3 X 5
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
阪神 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
日本ハム 0 0 0 0 0 0 0 1 X 1
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
日本ハム 0 0 4 0 0 0 4 1 0 9
ヤクルト 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
  1 2 3 4 5 6 7 8 9
日本ハム 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1
ヤクルト 0 0 3 1 0 0 0 1 X 5
  • 投手:吉川光夫・多田野数人・榊原諒・石井裕也

[編集] 硬式野球未経験の選手をドラフトで獲得

2011年のドラフト会議において、日本ハムは硬式野球の経験が全くない、早稲田大学ソフトボール部の大嶋匠をドラフト7位で指名した。ソフトボール出身者をドラフト指名するのは日本球界初。また、硬式野球の経験が全くない選手をドラフト指名するのも日本球界初。

[編集] 北海道移転後の東京ドームの公式戦

北海道移転後も、年間で3カード8試合前後の主催ゲームを引き続き東京ドームで開催している。これは、東京都にも球団事務所があること、二軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されていることと、旧来の東京のファンの存在を考慮したものである。2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで球団社長(当時)の今村純二が「札幌移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」と東京のファンの前で約束した。しかし、日本ハムの本拠地で無くなったことで、関東以外に本拠地を置くパの他球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。

移転初年度の2004年は主催ゲームを日本ハム12試合の他、ダイエーが1試合、オリックスが2試合開催した。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使った[43]。2005年は主催ゲームを日本ハムが10試合、オリックスが2試合(この年も対戦相手は日本ハム)開催し、2006年は日本ハムが9試合、2007年~2009年は日本ハムが8試合、オリックスが2試合、2010年は日本ハムが8試合、楽天が1試合、2011年は日本ハムが5試合、楽天が1試合開催した。2012年は日本ハムが8試合、楽天が1試合、ソフトバンクが1試合開催予定である。

  • 2011年においては、日本ハムは従来通り8試合の開催を予定していたが、東日本大震災による計画停電の影響を受け、3月29日3月31日の日本ハム主催の3試合が中止となる。その3試合の代替試合は全て札幌ドームで行われたことにより、東京ドームでの試合は計5試合に縮小されたのであった。

2005年より交流戦が開始されたため、巨人主催のビジター戦でも日本ハムは東京ドームでの試合を行っているが、東京ドームでの公式戦は札幌移転後は徐々に減少し、近年は主催試合を3カード8試合、巨人主催のビジター戦2試合を含め計10試合となっている。また、移転当初は土日に多く組まれていた主催試合も、2007年4月20日(金)~4月22日(日)の対ソフトバンク戦3連戦を最後に行われなくなり、現在は平日の開催のみである。なお2011年現在、日本ハム主催の交流戦が東京ドームで行われたことは一度もない。

本拠地移転後、東京ドームで日本ハム対西武の公式戦は未だに行われていない[44]。これは2003年より西武が札幌ドームを準本拠地として使う事を計画していたことが関係している[45]

年間数試合となったが、2007年5月17日田中幸雄の2000本安打、2008年7月15日稲葉篤紀の1500試合と1500安打の同時達成などの個人の名記録、更にチームとしても、2007年9月19日に勝利してクライマックスシリーズの出場権を12球団一番乗りで獲得するなど、記録となる試合が多い。また、2006年4月18日のヒーローインタビューで、突然SHINJOがこの年限りでの現役引退を表明したのも、この東京ドームでの試合だった。2011年は巨人主催のビジター2戦も含め、東京ドーム7戦全勝(7勝0敗)を達成した。

2011年7月20日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、ダルビッシュ有田中将大の「エース対決」に注目が集まり、平日ながら44,826人の観客動員数を記録。実数発表の2005年以降、現在の本拠地の札幌ドームでの動員数も含め史上最多の動員数を記録した。

[編集] 北海道移転後の地方主催試合

北海道移転前の日本ハムは、香川県高松市オリーブスタジアム長崎県長崎市ビッグNスタジアムなど毎年異なる各地で地方主催試合を行っていたが、北海道に移転してからは、前述の東京ドーム以外に、函館オーシャンスタジアム旭川スタルヒン球場釧路市民球場帯広の森野球場札幌市円山球場の道内球場に限定して地方主催試合を行っている。

このうち函館、旭川、釧路、帯広の4球場においては、移転当初から函館・旭川、釧路・帯広(道東シリーズ)を隔年で行う構想があり、移転初年の2004年は函館2試合、旭川1試合が行われ、2005年は釧路1試合、帯広1試合、2006年は函館1試合、旭川1試合が行われた。

その後、さらなる道内のファン層開拓を狙う方針により、2007年から2009年は4球場とも毎年行われ、函館を2試合、その他3球場を1試合ずつ開催するようになった。2010年は釧路の開催がなくなり、函館、帯広、旭川で2試合ずつ開催された。このうち、帯広と旭川は1日の移動日を挟む形(7月31日8月1日の西武戦・帯広シリーズ→8月2日移動日→8月3日8月4日のソフトバンク戦・旭川シリーズ)での道内遠征となった。2011年も函館、旭川、帯広で2試合ずつ開催された。

一方、円山においては、2004年のシーズンオフに当時監督だったトレイ・ヒルマンが球場を訪れた際、翌2005年に開場70周年を迎える事を聞き、球団に公式戦の開催を要望した事をきっかけとして1試合が開催された。その後2007年、2009年にもそれぞれ1試合ずつ行われた。

上記の4球場とは異なり、まだ毎年行われる事は決まっていないが、行われたこれらの試合はいずれも交流戦である。

[編集] 平日のデーゲーム

これらの5球場にはいずれも、使用時間が日中に限定されているため[46][47]、必然的にデーゲームで開催されることになる。とりわけ平日のデーゲームだと観客動員に影響する恐れもあって、大抵の試合は週末(土曜・日曜)か祝日に行っている。

しかし、2009年より地方主催試合のいくつかを平日のデーゲームで行った。これは、週末の開催を極力札幌ドームで行うことや、未就学児や主婦ら、平日のナイターをなかなか見ることの出来ないファンへの配慮、また8月に行われる試合は夏休みと重なることで、平日ながら多くのファンを見込めると考えてデーゲームでの開催にしたものである。行われた試合は下表の通りで、開催時間はいずれも13時からである。

地方主催試合の平日デーゲーム
開催日 曜日 開催球場 対戦チーム 備考
2009年 6月10日 札幌市円山球場 横浜ベイスターズ 交流戦史上初の平日デーゲーム。
8月18日 旭川スタルヒン球場 東北楽天ゴールデンイーグルス 19日にも同球場にて13時からの試合が予定されていたが、中止となった[48]
2010年 8月3日
8月4日

旭川スタルヒン球場 福岡ソフトバンクホークス
2011年 7月26日
7月27日

帯広の森野球場 オリックス・バファローズ

1960年代ごろまでは照明設備が無い球場が多かったため、ホームでの平日のデーゲームは頻繁にあり、1990年代ごろまでは消化試合やプレーオフ、日本シリーズでも行われたことがあった。最近では楽天が2007・2008年に春休みのホームゲームを一部気候の問題でデーゲームとした例(2011年も予定されていたが、震災のため中止)や、2011年の東日本大震災による関東地方の計画停電により、千葉ロッテや東京ヤクルトなど3球団が、節電対策として4月の全試合をデーゲームに切り替えた例がある。なお、2007年の楽天のデーゲームの対戦相手は日本ハムだった。

  • なお、札幌ドームでの試合でも、2008年8月14日(木)・15日(金)の対オリックス・バファローズ戦で、平日のデーゲームを行った事がある。これは当初18時開始のナイターの予定だったが、北京オリンピックの野球日本代表の試合と日時が重なることを考慮して急遽変更し、14時開始のデーゲームとしたものである。

[編集] 東京の球団から地域密着球団へ

先に挙げた「地域密着姿勢」の原点は1988年、東京ドーム開場初年度にある。

日本ハムの同年の観客動員数は、ドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回り、また、セ・パ12球団を合わせても巨人に次ぐ2位で、同年セを制した中日や、5万人超[49]の収容能力を誇る阪神甲子園球場を本拠地とする阪神をも上回った。しかしこの日本ハムの動員数は、いわゆる“ドーム見たさ”の観客が多かったことが原因にあり、巨人戦のチケットが取れなかった野球ファンが、巨人戦に比べて座席に余裕のある日本ハム戦のチケットを購入し、ドーム見物ついでで観戦した、というのがその実情だった。また、当時日本ハムの所属選手の中では前年新人王を争った西崎幸広や、同年西崎と共に最多勝を獲得した松浦宏明ら数人の若手選手が全国的な人気を誇っていたものの、スター性の強い選手が少なく、球団のオフィシャルブックの表紙はほとんどのシーズンで西崎が被写体となっていた。

この間フロントは「ドームさえあれば、何もしなくてもお客さんは来てくれる」と“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策は次第におざなりになっていった。試合中の場内演出も乏しく、チームも常時優勝争いをすることができぬまま低迷した。さらに西崎ら主力選手との契約交渉上のトラブルが多発し(結局西崎は1997年オフに西武へトレードされる)、1993年と1996年、1998年には優勝争いに加わるものの、翌年に尻すぼみとなる悪循環を繰り返した。また1993年には福岡ドーム、1997年には大阪ドームナゴヤドームが相次いで開場し、ドームの稀少価値が相対的に低下。皮肉にも観客動員数は1988年をピークに減少[50]し、某年には夕刊フジ紙上で同社記者の江尻良文に、日本ハムの本拠地移転を促す辛辣な論評を書きたてられた。2003年の動員数は約133万人にまで落ち込んだ。

日本ハムはこの反省を教訓に、北海道移転を機にコーポレート・アイデンティティ(CI)の導入を決定し、アメリカのSME社と共同で球団のイメージアップに本格的に着手する。その一環として「地域密着」の方針を打ち出し、北海道内でのチームの認知度アップとファン層開拓を目指した。新庄剛志を獲得したのも、ファン獲得の一環でもあった。移転当初は「北海道は巨人ファンが圧倒的に多い」という現実があったが、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加。また、トレイ・ヒルマンら首脳陣の下で森本、ダルビッシュらが成長し、高田繁らフロント陣の編成策によってチームの戦力層が強化された。

札幌ドームで初めて開幕戦を迎えた2006年に実施した「43,000プロジェクト」は、開幕戦など年間数回にわたってドームを満員にするために行われたスペシャル企画で、開幕戦では42,393人(パ開幕戦3球場中最多)、翌日も29,170人の観客動員を記録するなどいずれも成功し、動員数増加に大きく貢献した。12年ぶりの開幕2連勝を飾ったチームも優勝を争い、シーズン終盤には連日3万人超の観客が札幌ドームを訪れた。そしてチームはパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも中日を退けて日本一に輝いた。新庄が引退し、小笠原道大がFAで巨人へ移籍した2007年も2年連続でリーグ優勝し、クライマックスシリーズも制すなど、ピークといわれた前年の観客動員をさらに上回った。また、移転当初は隔年開催だった旭川スタルヒン球場函館オーシャンスタジアム釧路市民球場帯広の森野球場(道東シリーズ)での道内開催公式戦を、4球場とも毎年開催するよう改めた。

この道内各所での遠征シリーズ、あるいは札幌ドームでの主に夏季に行われるある3連戦は「We Love Hokkaido」シリーズとして、オリジナルユニフォームの着用や、2011年の札幌ドームでの西武戦(「北海道祭り」シリーズ)では外野席に道内179市町村と北海道の自治体旗が掲揚されたり、道内物産展や民俗芸能の紹介、花火大会(2011年)など、様々な趣向を凝らした地域密着応援シリーズを行っている。

しかし、それでも平日(特にシーズン序盤)の試合の観客動員数が2万人を割り込むことが多いため、球団では北海道在住者や午後7時台以降に来訪する観客を対象とした企画チケットを発売するなど、数々の観客獲得策を実施している(#チームの特徴も参照)。2007年には、財政破綻した夕張市の市民を札幌ドームに招待する「夕張シート」を創設し、2009年には札幌ドームのファウルエリアにフィールドシートを増設するなど、さらなる誘客策と地域密着策の開拓に力を注いでいる。[51]

[編集] HNFベースボールクラブ

HNFベースボールクラブは、北海道の少年野球愛好家らで、高校進学以後も本格的に野球を続けたいと考える人たちのために開催されている有料会員制の野球教室。毎年10月から3月に開催している。

  • 参加資格 入校時に中学校3年生で、高校進学以後も野球を本格的に取り組みたい生徒。硬式軟式の経験種別を問わない。
  • 定員 1コースにつき30人
  • 実施期間 平年毎年10月から翌年3月で、札幌市のサッポロビール園にあるファイターズ練習場を会場に週1回ずつのコース×3組で練習を開催する。開講は月曜、水曜、木曜の18時から19時半(2009年度実績)
  • 入会金 5000円、月謝15000円/月(2009年度実績)
  • 2009年度は旭川校、三笠校をそれぞれ毎週土曜日に開催。
    • 旭川校 会場・旭川フェニックスセンター。定員・バッテリーの部(午前9時30分から正午)15名、野手の部(午後1時から3時30分)12名
    • 三笠校 会場・三笠ドーム。定員・20名

[編集] ファイターズ応援番組

[編集] テレビ

[編集] 全国向け放送

1990年代当初は東京ケーブルネットワーク制作(試合日によってテレビ埼玉、または千葉テレビ放送と共同制作としたものあり)の番組を、GAORAとスポーツ・アイESPNと本数調整しながら中継した。その後はほぼGAORAの独占となるが、1999年の一時期、J SKY SPORTSと放送本数を調整して中継した試合があった。

[編集] 北海道内

全体的な総数では各局ごとにばらつきが見られるが、特に日本一を境に中継数が大幅に増加している。移転初年度から数年間は本拠地の試合を中心に数試合放送される事がほとんどであったが、近年ではビジター中継も積極的に行っている。

[編集] NHK札幌放送局
[編集] 現在
[編集] 過去
[編集] HBC 北海道放送
[編集] 現在

ビジターゲームはTBS系列局からのネット受けだが、ほとんど岩本勉が解説者として登場することが多い。

[編集] 過去
[編集] STV 札幌テレビ放送
[編集] HTB 北海道テレビ放送
[編集] 現在
[編集] 過去
[編集] UHB 北海道文化放送
[編集] 現在
[編集] 過去
[編集] TVh テレビ北海道
[編集] 現在
[編集] 過去

道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っていることも特筆すべき点である。中でも2008年まではTVhが一番力を入れていた[52]

但し、TVhは札幌旭川函館室蘭を中心にした道央と道南のほぼ全域、道北の一部でしか見ることができず、帯広北見釧路稚内を中心にした道東全域、道北の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくなかった。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到(HBCラジオとSTVラジオでは聞けた)。

その後TVhは、地上デジタル放送設置経費増加に伴う制作費削減に伴って2009年は原則として中継を行わず、2010年も試合中継数が少なかった。2011年には前年に総務省から「後発民放支援スキーム」という後発民放の置局格差解消に伴う開局費用が補助される支援で道東の一部でも開局することになり、2012年以降は主要都市のほぼ全域でTVhが見られるため、苦情の数は次第に収まると見込んでいる。

  • 2009年9月26日にソフトバンク対日本ハムの中継を行った。また、11月8日に日本シリーズ第7戦・北海道日本ハムファイターズVS読売ジャイアンツを放送する予定だったが、第6戦で巨人の日本一が決まったため、第7戦が開催されず放送されなかった。
  • 2010年は3試合中継を行った(主にネット受け)。
  • 2011年は5試合の中継を行った(ネット受け2試合、自社制作3試合)。

2006・2007年の優勝パレードは、全局優勝パレード中継を生放送した。2009年はNHKを除く全民放が互い違いに放送した。

[編集] その他

[編集] テレビ東京
  • 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していたが、その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。
  • 1990年代後半から、日本ハム提供でテレビ中継を再び行うようになった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、『超野球ファイターズ』という日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。
  • 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組『超ぽじてぃぶ! ファイターズ』をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、さらに監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負で魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
[編集] テレビ埼玉
[編集] 千葉テレビ放送

[編集] ラジオ

[編集] 北海道内

[編集] HBCラジオ
[編集] STVラジオ

※札幌ドームのナイターを中心に放送し、ビジターはヤフードームのソフトバンク戦など一部の試合のみ放送。その他は全国ネットの巨人戦を放送している。但し、2007・2008年度は、ナイターはホームの全試合とビジターの大半、日曜日のデーゲームを中継していたが、2009年以降のデーゲームはワイド番組を優先する関係で、主管試合でも放送することがなくなった。

[編集] AIR-G'
[編集] 現在
  • 『ビビッド・クルール』内ファイターズ情報
[編集] 過去
[編集] FM NORTH WAVE
[編集] 現在
  • G1sports(『G1-MOTION』内)
  • DAY-TIME TRIPPERS(木曜日)
[編集] 過去
  • Weekly Fighters Press

[編集] その他

[編集] 文化放送
[編集] 現在
[編集] 過去

[編集] インターネット中継

2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた。2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。2009年9月22日に「オンエアーステーション」上で2軍戦のラジオ中継が行われた。

[編集] 補足

  • 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
    • 1970年代後半のNET→テレビ朝日との関係が縮小された時、日本テレビ放送網フジテレビジョンでも主として週末に開催される後楽園主催試合を多数放送したことがあった。もっとも、日テレは後楽園球場時代に独占的な放映権があり、中継本数が多かった。TBSテレビは東映時代の1950年代と東京ドーム末期にデーゲーム中継をわずかながら放送。
  • 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)制作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)とGAORA毎日放送系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
  • 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
  • この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
    • 三角山放送局(札幌市西区サイトはこちら):金子誠の 『週刊マック』
    • FMわっぴー(稚内市)・AIRてっし(名寄市)・FMもえる(留萌市)・FMウイング(帯広市)・FM-G’SKY(滝川市) さっぽろ村ラジオ(札幌市東区)FMパンプキン(恵庭市):「ナイス!ファイターズチャンネル」
    • FMメイプル(北広島市エリア)聴いてよメイプル…GOGOファイターズ!!

[編集] 脚注・出典

  1. ^ これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため(ただし、阪神では公式な愛称としては定着しなかったが、現在の打線のネーミングは「猛虎打線」である)、定着しなかった(参照)。
  2. ^ 大川博著書・『真剣勝負に生きる』p77
  3. ^ もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』](JIMMY'S STRIKE ZONEより)
  4. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 4 』ベースボール・マガジン社、1987年、P13-16
  5. ^ 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男(横沢三郎の兄)の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。
  6. ^ 1985年2月、東映不動産株式会社に吸収され、東映興業不動産株式会社となる(東映興業不動産は、2006年11月に東映へ吸収され消滅)。
  7. ^ 帝国データバンクの倒産情報(2004年6月24日付。※Webarchiveの保存キャッシュ)
  8. ^ 「日本ハムファイターズ」以降としては初である
  9. ^ 継投による完全試合は参考記録
  10. ^ 続く7月19日帯広の森野球場でも悪天候により中止となり、日本ハム主催試合が2試合連続中止となった。なお、8月19日旭川スタルヒン球場での対楽天戦もグラウンドコンディションの不良のため中止となり、この年道内での日本ハム主催試合が3試合中止となっている。
  11. ^ 3名の他にも、新型の恐れのあるA型インフルエンザによる発熱で主力選手の欠場、登録抹消が相次いだ。
  12. ^ この試合の途中でマジック対象チームの楽天がロッテに敗れたため、勝利を決める前に優勝が決定していた。
  13. ^ 鶴岡慎也(捕手)、高橋信二(一塁手)、田中賢介(二塁手)、小谷野栄一(三塁手)、金子誠(遊撃手)、稲葉篤紀、糸井嘉男(以上外野手
  14. ^ 北海道日本ハムファイターズ 豊島明好オフィシャルブログ
  15. ^ 緊急トレードで露呈した日本ハムの内部亀裂
  16. ^ 「復帰プランはタブー」日ハム蘇生は中田がいないから!?
  17. ^ 日本ハム2軍がイースタンV
  18. ^ 日本ハム“監督交代報道”の真相…V争い中にナゼ?
  19. ^ 日本ハムが繰り返す“負の歴史”梨田監督退任報道で考えたこと。
  20. ^ 梨田監督、今季限り=日本ハム「後任は白紙」-プロ野球
  21. ^ a b ファイターズ快進撃の裏に、“本当に役立つ”情報システムありIT Pro 2009年4月21日、2009年4月24日閲覧
  22. ^ [1]
  23. ^ ただし、稲葉も当初は大リーグ入りを目指したものの、応じる球団がなく断念し、国内で唯一オファーがあった日本ハムに移籍したものである。
  24. ^ シンデレラシートで盗難続出
  25. ^ 2003年8月のドームでのホームゲームは盆休みの3日間だけだった。
  26. ^ アメリカ合衆国ではオレゴン州ポートランドで、1975年から1982年まで北米サッカーリーグのポートランド・ティンバーズとAAA級のパシフィック・コーストリーグに所属するポートランド・ビーバーズが、また、2001年から現在までユナイテッドサッカーリーグのティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカではメジャーリーグベースボールアメリカンフットボールNFLの本拠地を共有する事例がある
  27. ^ 現在、宮城球場限定の小谷野栄一の応援コールで同じスタイルが使われる。ただし宮城球場では笛が使えない為、笛の代わりに太鼓を用いて「ドンドドンドドンドドン栄一」としている。
  28. ^ 東京ドームの主催試合のみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。ただし、2007年以降には太鼓を使うようになった。
  29. ^ 途中で男性パートと女性パートに別れる。また、クライマックスシリーズ限定で関東以外の球場でも披露された。
  30. ^ 2008年と2009年のクライマックスシリーズと2009年の日本シリーズでは、両方とも使われた。
  31. ^ 2006年までは銀色だった。また、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」では銀と青の2色で、2009年5月の「ファミリーシリーズ・さくらまつり」ではピンクメタリック、10月の「炎の最終シリーズ」ではレッドメタリックのテープが発射される。
  32. ^ http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/fs_ballpark/64843.html 敵より先に「幸運」つかめ 球界初「ラッキー6」
  33. ^ 札幌移転前のラッキー7のBGMであり、移転後も2008年までは5回裏に応援団のトランペット演奏で流していた
  34. ^ 2010年シーズンに中日ドラゴンズが記録している。
  35. ^ 1942年シーズンに大阪タイガースが記録して以来。
  36. ^野球小僧』、白夜書房、2009年4月号、198、199頁。
  37. ^ 綱島理友「プロ野球ユニフォーム物語」より。
  38. ^ 同年5月にパシフィックが絡んだ4試合(うち1試合は没収試合第1号となったセネターズ戦(5月20日)で、同チーム所属の一部選手の不正登録疑惑があり、パシフィックの没収試合負けとなった事例があるが、これは試合成立・終了後のものである。
  39. ^ 前期に使ったユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた。
  40. ^ 投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫外野手ミッチェル・千藤三樹男で、外野手の残り1枠は阪急の福本豊
  41. ^ この2人は怪我以外の理由で出場辞退した初のファン投票選出選手となった。
  42. ^ この「ハム」の愛称は、北海道日刊スポーツの記者・上野耕太郎の記事による[2]
  43. ^ ただし前身の後楽園球場を含め、オープン戦や1981年の日本シリーズなどで使った例は多数ある。
  44. ^ 移転した2004年に、同年限りで消滅した大阪近鉄バファローズの公式戦も行われたので、移転後公式戦が行われたことがないのは西武のみである。但し、2005年のオープン戦で対西武戦が行われた
  45. ^ 埼玉西武ライオンズ#札幌ドームも参照。
  46. ^ 円山は17時、旭川と釧路と帯広は最長で19時を過ぎると日没コールドが適用される。なお、函館は原則最長で18時までだが、18時を過ぎても展開によっては試合続行が可能である。
  47. ^ 夜間照明設備がないためであるが、2013年に旭川でナイターを実施する方針 - ハム13年日本最北旭川でナイター実施へ 日刊スポーツ 2011年12月20日
  48. ^ 雨天によるグランドコンディション不良のため。
  49. ^ ただし、これは実数発表を行うようになった2005年よりも前の数字であり、現在の最大収容人数は47,808人で5万人超にはならない。
  50. ^ 2004年春放送フジテレビEZ!TVより
  51. ^ 「捨てる」決断の価値を体現した北海道日本ハムファイターズ
  52. ^ これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易なためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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