斎藤太吾

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斎藤太吾(さいとう だいご、1980年3月7日 - )は埼玉県所沢市出身の全日本プロドリフト選手権D1グランプリ)に参戦するレーサーである。ニックネームは「太吾」。本業は保育園バスの運転手。

来歴[編集]

2004年度よりD1に参戦し、2006年頃から追走にしばしば進出するようになった。2007年はシーズンの途中から松田豊久・前田謙の所属先、チームK&LJAPANに加入しシリーズ成績7位、2008年は追走での弱点を克服し、シリーズチャンピオンとなる。最高成績は、2008年度第5戦オートポリスでの優勝。 2008年度のシード選手の中で唯一の20代ドライバーで、ドリフト界のホープといえる。

重量のある4ドアセダン車を使用するものの、軽量の2ドアクーペ車をも上回るほどの進入速度を効果的に利用し、主に単走において高得点を生む展開が多かった。逆に追走になると成績が安定せず、審査委員長の土屋圭市からは「単走番長」とのレッテルを貼られたことがある。なお2007年のシード選手の中では、唯一、準決勝への進出経験がなかった。しかし、2008年度はパワーを生かした追走で、2008年の第2戦の富士スピードウェイで決勝進出、第3戦の鈴鹿サーキットで4位、続いて第4戦の岡山国際サーキットで準決勝へと進出した。そして、第5戦のオートポリスにて地元出身の野村謙を下して優勝し、その勢いで迎えた最終戦の富士スピードウェイにおいて、マシントラブルにて準決勝で敗退するも、2位につけていた今村陽一を直接対決で下し、2008年度のシリーズチャンピオンを決めた。2009年からはベールマンのエアロ提供でマシンをフォード・マスタングに切り替える予定。メンテナンス&チューニングはこれまでと同様FNATZが担当することになる。

マシンコントロールが丁寧で、ミスが少ないのが強みであるが、2007年度第2戦の富士スピードウェイにおいて、ベスト8での川畑真人とのサドンデスでD1史上最悪とも言える大クラッシュを起こしてしまう(斎藤が300Rで芝生に乗り、アンダーを出して川畑のマシンに当ててしまったことがきっかけ)。このクラッシュで特に川畑の安否が心配されたが、結果的に双方に大事はなかった。また、適応力の高さも特筆すべきポイントであり、2008年度の単走の審査基準から進入速度が外されると、より大きな角度と大量の白煙を出す走り方に素早く切り替えた。

2012年からインドネシアのアキレスタイヤのサポートを受けてフォーミュラ・ドリフトレクサス・SCで参戦、シリーズ初参戦にして見事シリーズチャンピオンを獲得した。さらにフォーミュラ・ドリフト・アジアでもレクサス・IS Fで参戦し、こちらもチャンピオンを獲得しておりD1グランプリでチャンピオンを獲得したら三冠の可能性もあり、最終戦以外の出場したラウンドで決勝に上がるなど活躍したものの、日程の都合上3戦を欠場した(フォーミュラ・ドリフト及びアジアを優先していた)のが最終的に響きシリーズランキング2位に終わった。 2013年は自身のレーシングガレージであるファットファイブレーシングを立ち上げ、フォーミュラ・ドリフト、フォーミュラ・ドリフト・アジア、D1に参戦している。

エピソード[編集]

  • カレーが大好物ではあるが、エアロパーツを提供してくれるBNスポーツのカレー限定とのこと。
  • 憧れの人に、WRCドライバーであったコリン・マクレーを挙げている。
  • 2008年6月7・8日にお台場で行われたエキシビジョンにおいて、他の選手はみなホイールスピンを警戒してアクセルをコントロールしながら走っているのに対し、アクセル全開で白煙を巻き上げながら1コーナーへ進入していった。
  • その豪快な走りは時として審査対象にとどまらないことがあり、審査委員長の土屋圭市は「太吾の走りは凄すぎて参考にならないから、みんなは真似しないように」と笑いながら言われている。
  • 主に練習の相方を務めている同じD1ドライバーの箕輪慎治のマシンは、特訓のおかげで至る所が凹みだらけになっているという。

外部リンク[編集]

先代:
2007年
川畑真人
D1グランプリ
シリーズチャンピオン
(2008年)
次代:
2009年
今村陽一